南山城古寺 第七番 |
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曹洞宗大乗寺派 本尊 十一面観音 |
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正しくは白華補陀落山観音妙智院禅定寺と称す。 もとは、天台宗だが、現在は禅宗の曹洞宗で、福井県の永平寺と神奈川県の總持寺を両大本山とする日本仏教宗派最大教団に属する寺院で、曹洞宗中興月舟宗胡禅師終焉の地である。
そもそも、ここ宇治田原の地は、古来より宇治田原越え禅定寺越えと称して、山城の国宇治より近江の瀬田または信樂地方に抜ける間道で特に、平安京以前にあっては、近江ひいては東海道に通じる要路として注目された古道であった。
平安時代になって、洛南の宇治地方が、藤原氏一族の別荘地として脚光を浴びるようになるが、それは10世紀末から11世紀にかけての藤原道長とくに、子の頼通のころからで、平等院をはじめ浄妙寺・白河金色院などで知られるが禅定寺の土地はその先駆けであった。
禅定寺の創建は、藤原兼家の帰依により一条天皇御代、東大寺53代別当であった平崇上人が、正暦2年(991)に私領の山野等を卜定して、堂を建て、十一面観音像を安置したのに始まり、造営に5年の歳月を費やしたという。 ついで長保3年(1001)に、上人はそま山を含む田畑一千町歩をこの寺に施入した。
このように大きく発展したが、鎌倉時代から室町、戦国時代即ち武家時代になって創建当初の伽藍は焼失した。
復興は、江戸時代延宝8年(1680)加賀の国大乗寺26代曹洞宗中興月舟宗胡禅師を迎えることによって果たされた。 月舟禅師は再興に大いに努力し、特に禅師に帰依していた加賀藩の家老・本多安房守政長の経済的援助を得て、諸堂を再興し旧観に復する事に成功した。 その意味では月舟禅師こそ禅定寺中興開基の祖と仰がれる人で、禅師の名声は諸国に発せられ、時の霊元天皇は当山に行幸され、勅願を下賜された。
近世昭和55年3月16日には皇太子殿下が行啓され一千年の寺歴を今日に伝えている。
出所:『禅定寺観音縁起』ちらし
≪仁王門≫
なかなか見事な仁王像ですが、それよりも像の手前にある等身大のわらじの方に目が奪われてしまいます。 |
≪本堂≫
珍しい萱葺き屋根の本堂です。 確か直指庵の本堂も茅葺きだったなぁ。 |
≪ご詠歌額≫
禅定寺は田原郷三十三所の第三十三番札所でした。 「ふだらくやこの山里に三十あまり 三つのみのりの寺ぞさかゆる」 |
更新日:2018/01/03