京都十三佛 第八番 |
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真言宗智山派 本尊 釈迦如来 |
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御和讃
苦患に喘ぐ人々の 信じて頼む声を聞き 済ひの御手を垂れ給う 大慈大悲の観世音
鎌倉初期義空上人により開創。 上人は貞応二年本堂建立に着手、嘉禎元年に諸堂を整い、倶舎、天台、真言三宗弘通の道場として綸命を受ける。 今の本堂は創建当初のもので、旧京都市内最古の国宝建造物です。
当寺の六観音菩薩像(聖、千手、十一面、馬頭、准胝、如意輪)は、地獄、餓鬼、畜生道等の六道に配されて各々の先祖の霊を救うとされ、ご本尊釈迦如来とともに創建以来の霊佛です。
出所:『京都十三佛巡拝納経』
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≪本堂≫
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≪阿亀(おかめ)の大像≫
「おかめ」「ひょっとこ」のお面でお馴染みの「おかめさん」は実在の女性でした。 ふくよかで笑顔のお面の印象とはうらはらに、大工の棟梁の妻として夫のピンチを救いながら自害して果てたという悲しい物語があります。 |
おかめ塚由来
鎌倉時代の初め西洞院一條上るの辺りで長井飛騨守髙次という洛中洛外に名の聞えた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。
そのころ義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、髙次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいきましたが、髙次ほどの名人も〝千慮の一失〟というべきか信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切りおとしてしまったのです。
心憂の毎日を過している夫の姿を見た妻の阿亀は古い記録を思い出し「いっそ斗栱をほどこせば」というひと言、この着想が結果として成功をおさめ、見事な大堂の骨組みが出来上ったのです。
安貞元年十二月二十六日厳粛な上棟式が行なわれたが此の日を待たづしておかめは自ら自刃して果てたのです。 女の提言により棟梁としての大任を果し得たという事が世間にもれきこえては‥‥‥「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。
髙次は上棟の日亡き妻の面を御幣につけて飾り冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれまた、この阿亀の話を傳え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に、同上の涙を流して菩提を弔うため境内に宝筐印塔を建立しだれ言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。
現在京都を中心として使用されているおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により〝家宅の火災除け〟家内安全と繁栄を祈って始められたものです。 また、おかめの徳は〝災を転じて福となす〟というところから、建築成就工事安全、女一代厄難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として全国を風靡するところとなっています。 なお昭和五十四年の春有志により阿亀の大像が造立され福徳の像として祀られ〝おかめ信仰〟の輪が一層広がっております。
出所:『おかめ塚由来』瑞應山千本釋迦堂大報恩寺 駒札
更新日:2021/11/03