京都八本山 第一番 |
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日蓮宗 霊跡・大本山 本尊 |
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広大な境内に本堂・三菩薩堂・鬼子母神堂などが整然と並ぶ。 妙顕寺は「龍華」または「顕山」の通称で呼ばれる関西随一の霊跡寺院である。
縁起 当山は元亨元年(一三二一)に、宗祖の孫弟子にあたる龍華樹院日像上人によって開創された。 上人は、文永六年(一二六九)、豪族平賀忠晴を父に、六老僧日昭上人の妹を母として生まれ、万寿麿と名付けられた。 六老僧の日朗上人とは異父兄、九老日輪上人は肉弟にあたる。 六歳の頃から日蓮聖人に薪水給仕、経一丸と名付けられたが、宗祖の入滅に臨み、じきじきに枕元に呼ばれ、宗祖立教の本旨たる妙法を奏上して正法治国の仏国土建設と、その第一歩としての帝都開教を遺命された。 経一丸、わずか十三歳であった。
宗祖滅後、兄の日朗について昼夜不断の勉学に努め、宗祖の十三回忌を期して厳寒の鎌倉由比ヶ浜で百カ日の苦修練行の後、諸国の宗祖霊場を巡り、永仁二年(一二九四)宗祖の遺命を果たすべく、初めて上洛した。 「正法をすてて邪法につけば国危うく、民苦しむ。 速やかに妙法に帰依して安楽仏土を築くべし」 との辻説法は、たちまち人々の信仰を集めた。 しかし教線の拡張に伴い他宗派の排斥を受け、三度都を追放されるという三黜三赦の法難に遭われたが、元亨元年に追放を赦され、ついに後醍醐天皇より皇居の御溝の傍に安居の地を賜り一宇を建立した。 これが当山の草創である。
建武元年(一三三四)四月には法華宗号の綸旨を賜り、勅願寺としての基盤を確固たるものとした。
二世大覚大僧正妙実上人は、初め大覚寺門跡の真言僧であったが、十七歳のとき日像上人の説法に接し、弟子たちを率いて本化の門に投じた。 以後、師僧の命を受け諸国を巡り、比類なき教線を張って広宣流布に大きな功績を果たした。 また妙実上人は、暦応四年(一三四一)に当山を四条櫛笥の地へ移転した。 特に延文三年(一三五八)に大旱魃が起きたとき、勅願によって衆僧三百人を従え、桂川のほとりで祈雨の修法を行ったところ、たちまち慈雨の効験があらわれ数日のあいだ山野田畑が潤い、その功によって後村上天皇より宗祖に大菩薩号、日朗・日像の二上人には菩薩号が下賜(かし)された。 その際、当山には四海唱導の称、妙実上人には大覚の称号と大僧正とが授けられ、寺勢はますます栄えた。
妙実上人の跡を継いだ朗源上人以降、その法燈継承について寺僧の間に争いが起こり、妙覺及び立本の両寺が龍華(当寺)の一門として分立し、当山と同じく具足山と号している。 これを三具足山と呼ぶ。
嘉慶元年(一三八七)に比叡山の徒によって当山は破却されるが、足利義満の寺領安堵により、明徳四年(一三九三)、姉小路堀川西の地で本寺である鎌倉妙本寺の寺号を移して再興され、文明十五年(一四八三)には西洞院三条へ移転した。 その後、明応五年(一四九六)、日芳上人の代に寺号を旧称に復したが、天文の法乱(一五三六)で災禍を受けるとただちに二条の地に再興され、天正十一年(一五八三)、豊臣秀吉の市街地整備に伴い現在地へ移転した。 江戸時代には、六条本圀寺とともに京都日蓮教団の二大拠点の一つとして発展した。
出所:『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて 日蓮宗本山めぐり(2003)』
[1] | [顕]の字は、正式には旧字体の[顯]を書きます。 |
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更新日:2020/11/20