京都八本山 第二番 |
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日蓮宗 霊跡・大本山 本尊 三宝尊 |
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当山は代々勅願道場として栄え、西の祖山とも呼ばれて、数代に及ぶ天皇の綸旨十余通を所蔵している。 比叡山延暦寺を御所の艮(東北)とすれば、大光山本圀寺は坤(西南)にあたり、皇室鎮護の祈願所たる権威は、その配置によってもうかがい知ることができる。 鎌倉より京都に移転して旧末寺六百余の六条門流の基を開いた当山の再移転復興には、全宗門の期待と支援の声が寄せられた。大本山妙顕寺の四条門流と双輪して史上に赫々たる法勲を遺した往時から、今や新しい法運隆昌の時代を迎えようとしている。
縁起 当寺は京洛における日蓮宗の巨刹として、帝都弘教に重きをなした寺であるが、建長五年(一二五三)八月、宗祖が鎌倉名越の松葉谷に草庵を構えて、法華堂と称したのがその創まりであった。 この法華堂が創設されて、数年後に伊豆の法難が起こったのであるが、弘長三年(一二六三)五月、ご赦免となってこの草庵に立ち戻られると山号を大光山、寺号を本国土妙寺と称されたといい、宗門史上で最も初期の寺となった。 ご法難のために出入りはあったが、宗祖ご生涯中の布教伝道の中心となる二十二年にわたる立正安国の国諫運動を展開された最も大切な布教の道場である。 宗祖の身延入山及びご入滅後は、日朗・日印・日静の各上人がときの政治の中心地・鎌倉にあって護持継承。 幕府の強圧と闘いながら正法宣布の使命遂行にあたられた。
やがて北条幕府が滅び、政治が鎌倉から京都に移って貞和元年(一三四五)三月、日静上人のとき、この霊跡大光山は光厳天皇の勅諚により、京都六条の地に東西二町、南北六町にわたる広大な永代寺領を賜り、鎌倉松葉谷から京都へ国禱護国の大道場本圀寺として移遷されるに至った。
日静上人の後を継いだ五世日伝上人から後は六条門流の隆盛期であって、法運は年と共に栄えたが、絢爛たる僧房も天文の法乱、天明の大火で被害を受けた。 とはいえ、後代に日禎・日圓・日解・日陵・日隆、また日重・日乾・日遠の三師、莚師法縁の祖日莚、達師法縁の祖日達、脱師法縁の祖日脱の諸上人、三村日修・旭日苗等の諸先師が、当山及びその求法檀林の法座より起ち、宗門史上に不滅の法勲をのこしている。 なお、伝師の資日秀上人は本満寺を、圓師の資日堯上人、日澄上人は韮山本立寺を創建され、また、身延山法主、中村檀林化主の歴代先師も数多く輩出している。
現況 宗祖は入滅に先立つ弘安五年(一二八二)十月三日に、本師堂奉安の「立像釈尊像」(聖人が四大法難克服のご生涯のご持仏で、現当二世の諸願を成就せしめ、蘇生の霊験あらたかと伝えられる)、「三赦免状」(伊豆・龍ノ口・佐渡の法難を立証する重要な許状)、そして『立正安国論』(本圀寺所蔵本は聖人がご生涯御所持の宗祖ご真筆広本)を正嫡付法の譲状とともに日朗上人に授与された。 これが当山の「三箇の霊宝」である。
山科の境内は琵琶湖より引く疎水の岸に添って、東山を背にした山紫水明の寂境である。 天智天皇の御陵と並び、桜並木と美しい幹の松林に包まれており、新たな大本山本圀寺の寺地にふさわしい。
出所:『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて 日蓮宗本山めぐり(2003)』
≪開運門≫
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≪本堂≫
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≪清正宮≫
いかにもご利益のありそうな金ピカの鳥居です。 |
更新日:2017/11/13