京都八本山 第三番 |
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日蓮宗 由緒寺院・本山 本尊 十界曼荼羅 |
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参道を進むと、享和元年(一八〇一)に建立された壮大な仁王門をくぐる。 当山の門前を「仁王門通り」と称するのはこの門に由来する。
広大な境内には本堂を中心に祖師堂や客殿などの諸堂が整然と並ぶ。 また山内には、江戸時代の絵師として有名な俵屋宗達の墓所もある。 当山は、河原町や京極などの繁華街に近いため交通の便はよい。
縁起 文明五年(一四七三)、上洛した下総(千葉県)中山法華経寺六世日薩上人の弟子妙国院日祝上人が、明応四年(一四九五)、細川勝益(かつます)の帰依を得て建立。 また足利将軍家も当山を祈願所とし、永正六年(一五〇九)、大永三年(一五二三)に寺地の移転を命じ、寺域も拡張した。 天文五年(一五三六)に起こった天文法乱によって灰燼と化したが、同十五年(一五四六)に信徒蓮池秀明の寄進により旧観に復した。 天正七年(一五七九)、日b上人のときの安土宗論によって宗風は一時衰えるが、秀吉が天下を掌握するに及び、本宗の禁を解くとともに日b上人も厚遇された。
現況 本堂は天保十一年(一八四〇)建立。 祖師堂・仁王門は享和元年建立。 ご真骨堂は文政十三年(一八三〇)建てられ近年改築。 古堂は延宝年間(一六七三〜八一)の宝蔵。 そのほかの諸堂は江戸後期から幕末にかけての建立。 特に祖師堂と同時の仁王門は当山を象徴する建造物。 仁王尊は運慶・快慶の作として有名であったが、後年の火災で尊体を焼亡、御首だけ残して造り替えられた。
◇日b上人と安土宗論
日b上人=油屋b師が当山三世の法燈を継いだのは弘治元年(一五五五)である。
上人は若年にもかかわらず修行と寺門の経営に優れた名僧として知られていた。
天正七年、織田信長の命により江州安土の浄厳院で浄土宗と対論することになった。
このとき、日b上人が本宗側代表として大いに論破したものの、謀略によって日b上人は拘禁され、本宗の僧俗を斬罪して宣教を禁止せしめた。 これを「安土宗論」と称し、「天文法乱」に次ぐ本宗殉教史の一つに数えられている。
出所:『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて 日蓮宗本山めぐり(2003)』
≪山門≫
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≪仁王門≫
頂妙寺の前の東西の通りを「仁王門通」と呼びますが、その名前はこの仁王門に由来します。 |
更新日:2016/08/15