京都八本山 第四番 |
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日蓮宗 由緒寺院・本山 本尊 |
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日蓮上人から京都弘通を遺命された日像上人を開祖とし、北龍華と称する。 京都の妙顕寺、立本寺とともに三具足山という。
上人ご臨終の折、枕辺で直々に京都弘通の遺命を受けた日像上人は、時期熟したと決意するや極寒の海で百日間の荒行の後、京都への途についた。 三黜三赦の法難の末、ついに元亨元年(一三二一)、後醍醐天皇より龍華院妙顕寺と法華宗の綸旨を賜り帝都開教を果たされた。
縁起 日像上人の後、妙顕寺は妙実上人、朗源僧都にその法統が伝えられたが、僧都の遷化により後嗣問題が起こった。 龍華院日実上人は妙顕寺より離れ、永和四年(一三七八)四条大宮の地に妙覺寺を開創、自らを第六世とした。 文明十五年(一四八三)十三世日住上人の代、将軍足利義尚の命により室町西二条へ移転した。 山内塔頭百余、末寺一千ヵ寺と称されたのはこのころである。 しかし、天文五年(一五三六)、京都法華宗を震撼させた天文法華の乱により、京都二十一カ本山はことごとく焼失し、十七世日兆上人も霊宝を奉持して堺へ避難の途次、殉教された。
天文十一年(一五四二)帰洛の勅許が出され、妙覺寺は同十七年(一五四八)旧地へ復興した。 十九世日饒上人が斉藤道三の子息であったことから、織田信長の宿ともなり、千利休の茶頭で大茶会も催された。 二十世日典上人の代、豊臣秀吉の洛中整理令により現在地へ移転。 その後、不受不施の禁止によって妙覺寺は大きな影響を受け、勢力が分断された時代もあったが、公家出身の貫首の晋山などにより、公家の信仰を得るに及び発展した。
現況 本堂には一塔両尊四士を安置。 祖師堂には、鎌倉時代から室町時代に造立された日蓮上人・日朗・日像上人の尊像を祀る。 天明八年(一七八八)の大火により華芳塔堂と聚楽第の裏門を移した大門以外の諸堂を焼失したが、歴代貫首の丹精によって今日の寺観に整えられた。 近年、話題になっている法姿園は、前庭・中庭・後庭に分かれる見事な庭園で、新緑と紅葉の季節はことに美しく、訪れる人が絶えない。
出所:『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて 日蓮宗本山めぐり(2003)』
更新日:2020/11/20