京都八本山 第五番 |
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日蓮宗 由緒寺院・本山 本尊 十界曼荼羅 |
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縁起 本満寺は百一代・後小松天皇代の応永十七年(一四一〇)、初代近衛関白左大臣道嗣公の嫡子玉洞妙院日秀上人によって近衛家の別荘に近衛内道場として建立された。 歴代の貫首は近衛家の猶子として参内した。 開山上人自ら「広宣流布山本願満足寺」と称したが後、略して「広布山本満寺」と称して今日に至り、戦前は末寺六十余カ寺を数えた。
当山は天文法乱によって焼かれたが、十二代日重上人は二十四歳にて本満寺十二代貫首に晋山、以来遷化に至る五十余年間当山は動かず、天文八年、近衛殿の援助を得て現在地に移転した。
もと新町通り今出川にあった当山が現在の場所に移ったのは天文八年(一五三九)のことで、関白近衛尚通卿の外護によるものであり、また後奈良天皇の勅願所ともなって栄えた。
さらに、次代の日乾上人が参内して法華経を講釈し、宗門綱格を天皇に献上、後陽成帝より紫衣の勅許を受け、宝暦元年(一七五一)、日鳳上人が徳川吉宗の病癒祈願をしてから徳川家類題の祈願所となり寺運は大きく栄えた。
明治四十四年二月八日、十三間四面の本堂を焼失し、昭和二年に現在の本堂が建立されている。
現在地は西南に京都御所、東北に下賀茂神社、西北に妙顕寺・妙覺寺・本法寺の各本山を臨む所に位置し、宗門史上では、日重をはじめ、日乾(十三世)、日遠(十四世)の三師(共に身延山に晋む)、日深(十五世)・日暹(十六世)等の名僧を輩出したことで知られる。
現況 山門をくぐって、石畳にそって少し左側に本堂がある。 奉安の祖師像は「天拝日蓮大菩薩」と称し、十三〜十四世紀の作で京都府北桑田郡芹生村山麓より掘り出されたものであり、その土中から法華経読誦の声があがったと伝える。 また妙見堂には、十三世日乾上人が豪族能勢氏の帰依を得て開いた能勢妙見寺と同体の妙見大菩薩が安置され、七面堂には十四世日遠上人が七面山で千日の行を修して感得した七面大明神を祀る。 庫裏の庭にはスギゴケが繁り、梅雨期には緑が一面を覆う。
出所:『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて 日蓮宗本山めぐり(2003)』
更新日:2017/01/22