吉祥院天満宮詳細録 第三章 p80 - 82
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菅少将十八歳の時父是善卿は東の京宣風坊にありし旧き家即ち紀僧正の宅を御購入遊ばされこれを御終繕[1]ありて菅少将をこれに転住せしめ給えり。 此の邸を山陰邸とも龍門亭とも申せしが菅公三十三歳の時稍狭きを以て建てひろげられしがこれを紅梅殿と称せり。 此の時より菅原の邸二つに別る。 是より当吉祥院菅原院邸を下屋敷と申され、山陰亭の方を上屋敷と申し給う。

(一)天神記図絵 干中
貞観四年四月御年十八才にて御及第ありて文章生にならせたまえり。 今年父相公の命によりて東の京宣風坊に一家を求て移らせたもう。 もとより有し家を御修造ありての方に書斎を作り庭に山をつかせ水を引梅を植竹を移して御学問の余暇を慰みたもう。 此亭を山陰亭という。 後御弟子あまた此亭にて学びて立身し給えるによって時の人龍門亭とぞ申ける又後に爰に御殿を建てひろげすませたもう。 紅梅の大樹あるによりて世人紅梅殿と称す。 此地は拾芥抄に五条坊門の北、町尻の西とありて今の菅大臣の地なり』
(二)同前 干中
『天穂日命より是善卿に至るまで廿八代なり。 是善卿御子なきによりて、天神を養い奉りて我御子として家業を伝えたまえり。 天神御年六才の御時より菅原院に養なわれたまい、十八才にして始めて紅梅殿の地に御別居あそばされ卅三才にして御殿を建ひろげ給えり云々』

(注)六才は誤りなり。 当菅原院に御降誕ありて御年一歳なり。

(三)近畿歴覧記 干中
『天神十八歳にして今の洛中菅大神の宅地を拝領あり。 この地は旧と紀僧正の宅也』
(四)吉祥院天満宮旧跡 干中
硯の水 硯の水とは菅公御幼少の頃御勉学の時硯の水等に用い給いし水にして、本社即御邸より凡五町東にありて清水今に涌出して飲料水となりて存す。
[1]「修繕」の誤記のように思われますが、原文通り「終繕」と表記します。

更新日:2021/01/23