祈雨十一社 拾芥抄 慶長年間(1596-1615)
拾芥抄 延喜式神名帳の比定社 現在
應和三年七十五日[1]
天雷[2] 不明[5] 不明[5]
水主 水主ミヌシノ神社(式内大社) 水主神社
木嶋 木島坐コノシマニマス天照御魂アマテルミムスビ神社
(名神大社)
木嶋神社
乙訓 已上山城 乙訓坐オトクニニマス大雷オホイカツチノ神社[3]
(名神大社)
角宮神社[4]
平岡 枚岡ヒラヲカノ神社(名神大社) 枚岡神社
恩智 已上河内 恩智オムチノ神社(名神大社) 恩智神社
廣田 広田ヒロタノ神社(名神大社) 廣田神社
生田 生田イクタノ神社(名神大社) 生田神社
長田 長田ナカタノ神社(名神大社) 長田神社
坐摩 坐摩サカスリノ神社(式内大社) 坐摩神社
垂水 已上攝津 垂水タルミノ神社(名神大社) 垂水神社
【分布】摂津国:5、山城国:4、河内国:2
[1]原文に「月」の文字はありませんが、意味は「七月十五日」です。
日本紀略』応和3年(963)7月15日条に祈雨の奉幣が記され、そこには伊勢をはじめとする「十六社」と龍穴・火雷・水主・木嶋・乙訓・平岡・恩智・宏田・生田・長田・坐摩・垂水の12社の名が記されています。 また、天暦2年(948)6月3日条には祈雨の場所として「十一社ならびに龍穴神等」という表現があり、龍穴(現・龍穴神社)は11社に含まれないことが分かります。
[2]原文表記は「天雷」ですが、『日本紀略』にある「火雷」が正しいと考えています。
[3]「大雷」を「火雷」とする伝本もあるようですが、ここでは「大雷」とします。
[4]向日神社(所在:向日市向日町北山)の前身は、同じ向日山に鎮座する向神社(上ノ社)と火雷神社(下ノ社)という2つの別の神社でした。 そのため、乙訓社と呼ばれていた角宮神社と、火雷神社を併祭した向日神社との間で、式内社「乙訓坐大雷(火雷)神社」の後裔をめぐる論争が江戸時代から続いていますが、角宮神社の方がやや有力なようです。
[5]今のところ比定社の情報が得られていません。 963年に奉幣が行われるほどの「天雷(火雷)」が、927年に編纂された延喜式神名帳で比定できないとは非常に不思議です。 比定できない理由として、(1)延喜式神名帳が恣意的に編纂され著名な社に漏れがある (2)延喜式神名帳の編纂後に「天雷(火雷)」が宮中の信仰を得た (3)記録の書写を重ねる間に誤記が混入し訳が分からなくなった などいろいろ考えられますが、私は以下のように推論しています。

【推論】
 「天雷(火雷)」は式内社「葛木坐火雷神社(現・笛吹神社)」だったが、衰退し忘れ去られた。

【理由】
 山城国で「天雷(火雷)」と類似の名称をもつ式内社は「乙訓坐大雷(火雷)神社」しかありませんが、「乙訓」が「乙訓坐大雷(火雷)神社」であることはほぼ確定しており、「天雷(火雷)」は別と考えざるを得ません。 また、拾芥抄の11社を地図上にプロットすると順路を示すように整然と並んでおり、最初の「天雷(火雷)」は2番目の「水主」より南にあったと推測できます。
 以上のことから、水主神社より南に位置して火雷を祀る式内社を捜した結果、山城国ではありませんが、大和国忍海郡の「葛木坐火雷神社」に行きあたりました。
 延喜式神名帳における「葛木坐火雷神社」の社格は他の10社と同列の名神(みょうじん)大社ですが、同社は平安時代に社勢が衰えて笛吹神社の末社になったと伝えられています。 拾芥抄が編纂された慶長年間(1596-1615)の頃には、すっかり忘れ去られた存在となってしまったのではないでしょうか。

更新日:2016/01/05