法然上人二十五霊場
第六番
あら はか さん し てん のう じ 阿弥陀堂
(念仏堂)
荒陵山 四天王寺
和宗 総本山
本尊 救世観音菩薩
御詠歌阿弥陀佛あみだぶこころ西にしに うつせみの
 もぬけはてたる こえすずしき
住 所
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備 考阿弥陀堂本尊:阿弥陀如来

 聖徳太子御開創。 「大日本仏法最初四天王寺」の標石が立つ。 「釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心」の額がかかる石の大鳥居を潜れば、左手北側に念仏堂があった。 引声堂または常行堂といい、ここは昔聖徳太子が七日間別時念仏を修せられたという、日本最初の念仏弘通の道場である。

 法然上人は天王寺御参詣の砌、この堂に往時を慕われつつ念仏を御修行なさったと伝えられている。 『勅伝』十六巻に、高野の学僧明遍僧都との問答を伝えているが、それは天王寺に在した時である。 明遍僧都が法然上人の選択集を披見した時霊夢を感じた。 天王寺の西門に多くの病人が悩み臥している間を一人の聖が粥を盛った鉢を持って、匙で病人の口毎に入れて食べさせられるのを見、それが法然上人とわかって夢が覚めた。 僧都思うよう「世濁り我等が有様例えば重病人の如し。 三論法相の柑子橘も食われず、真言止観の梨柿も食うことのできぬ我等には、全く念仏三昧の重湯で生死を出ずべきである」と悟られて、たちまち顕密の諸行をさしおき専修念仏の門に入られたのである。 上人の弟子法性寺空阿もここで不断念仏を始められた。

 四天王寺の塔・金堂をはじめ堂宇は、惜しくも昭和二十年三月の空襲で烏有に帰してしまったが昭和三十八年飛鳥時代の創建当初の様式、結構を復元したものでいわゆる四天王寺伽藍配置の今に至る貴重な遺構として文化史的に優れた価値を有するものである。

 現在、念仏堂はなく、法然上人尊像は六時堂に祠られ、朱印もここで行われている。[1]

出所:『圓光大師 法然上人御霊跡 巡拝の栞』


[1]元札所の念仏堂は昭和20年(1945)の戦災で焼失し、再建計画はあるようですが、今のところまだ再建されていません。 代わりに六時堂が札所となっていましたが、現在はさらに代わって阿弥陀堂が札所となっています。

更新日:2015/03/03