法然上人二十五霊場
第七番
ばん しょう ざん こう がく いん いっ しん じ
坂松山 高岳院 一心寺
浄土宗
本尊 阿弥陀如来
御詠歌阿弥陀佛あみだぶと いふよりほかは くに
 なにわのことも あしかりぬべし
住 所
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備 考

 文治元年(一一八五)の春、法然上人は四天王寺の別当、のちの天台座主慈鎮和尚の招請によって当地において日想観を修せられることとなり、その草庵に後白河法皇も同座せられた。 西に広がる海と足下の葦原、そのむこうに夕陽を拝して詠まれたのがこの歌であり、当山開基の由来とされる法皇の歌ものこされている。 時あたかも壇の浦において平家滅亡の年であった。

浪華潟入りにし日をもながむれば
   よしあしともに南無阿弥陀仏

 坂松山高岳山一心寺と言う。 元和元年(一六一五)、大坂夏の陣で徳川家康公の本陣・激戦地となり、戦後両軍戦死者の遺骸を葬り伽藍再興せられて「境内殺生禁断」の制札を得られた。 高岳院は天折せられた家康公の令息の法号。 坂松山は家康公の命名であり、以前は寿命山観称院一心寺とされていた。 境内及び付近に夏の陣の逸話が多い。

 江戸末期以来、年中不断の施餓鬼法要をもって一円に知られるところとなり、これに随って納められた遺骨で十年毎に造立される「お骨佛」はさらに全国に知られるに至った。 八代目団十郎の墓、林屋染丸の墓などあって上方芸能界との縁も深く庶民の寺として親しまれている。 昭和二十年(一九四五)春、戦災で全焼し、今日の諸堂はすべてそれ以降の復興であるが法然上人を開山として開山堂にまつり、墓地内に御廟を安置している。

出所:『圓光大師 法然上人御霊跡 巡拝の栞』


 「お骨佛」は明治20年(1887)に1体目が造られ、その後10年ごとに造仏が行われて来ました。 第二次世界大戦の戦災で6体すべてが灰になってしまいましたが、その遺灰と昭和22年(1947)までに納められた遺骨を併せて昭和23年(1948)に造仏が再開され、昭和32年(1957)以降も10年ごとに造仏が続けられています。
 次回のお骨仏開眼は2027年です。 他宗派の方でも納骨を受けていただけますが、一部ダメな宗派もあるようですのでご注意ください。
≪仁王像と山門≫
 美術館に来たかと錯覚しそうな青銅製の仁王像とモダンな山門。 昭和20年(1945)に空襲で焼失した山門が「黒門」と呼ばれていたことに因んで、黒い門として平成9年(1997)4月に復興されました。

更新日:2018/08/15