法然上人二十五霊場 第十番 |
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浄土宗 本尊 阿弥陀如来 |
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当寺の付近一帯は昔飛鳥朝のあった所で、至る所に万葉の古跡がある。 当寺より一キロメートル以内の寺院だけを見ても、東方に聖徳太子建立の大官大寺跡、日向寺、久米皇子の久米寺があり、西方に紀寺跡や善光寺如来の豊浦寺がある。 当寺はその頃どんな寺であったか記録はないが、少林院という紀寺関係の仏像であったと伝えられている。
法然上人は後鳥羽天皇の建久二年春、聖徳太子の御誕生地橋寺(当寺の南方三キロメートル)御参詣の帰途、錫を留めて村人を御化遷され、村人の懇望による遺身の御木像がある。
それから三百三十七年後、後奈良天皇の大永八年夏、知恩院第二十六代門跡歓蓮社保誉源派上人(日野大納言豊光御息)が霊夢により「香久山や麓の寺はせまけれど、高きみのりを説きて弘めむ」との歌を法然上人より賜り、当寺に隠栖して寺号を法然寺と改称された。
本尊阿弥陀如来は浮足如来と尊称され、寺伝には重源上人や熊谷蓮生房が別時念仏を行じた霊仏であると記されている。
出所:『圓光大師 法然上人御霊跡 巡拝の栞』
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更新日:2015/03/03