法然上人二十五霊場
第十五番
ほう かい さん ほう ねん いん げん くう じ
宝海山 法然院 源空寺
浄土宗
本尊 法然上人
御詠歌一声ひとこゑ南無阿弥陀佛なむあみだぶと いふひと
 はちすのうゑに のぼらぬはなし
住 所
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備 考

 当寺はその昔、三井寺の碩徳(せきとく)公胤僧正の弟子忍空上人の草庵であった。 上人は三井の学徒として天台の門流を汲まれたが、深く法然上人の徳風を仰ぎ、特に浄土の教義を信じ遂に山城の木幡(こばた)の里(現今の宇治市炭山)に隠れて一草庵を結びて専修念仏せられていた。 たまたま後鳥羽天皇の建久六年(一一九五)三月、法然上人御年六十三歳の時、奈良大仏殿再建落慶供養の御導師に下向せられた御帰途、留錫教化された。 道俗貴賎等しく涙を流して随喜渇仰し念仏に靡(なび)いたのである。 人々、上人とのお別れを惜しみ、御影を安置せんことを請う。 上人その願いの切なるを感ぜられ、かねて御書写の法門及び法語数通でもって、張貫きの像を作ってこれを忍空上人に授与された。 ここにおいて草庵を改めて念仏の道場とし、その尊像を安置し上人を仰いで開山とせられた。

 慶長十七年(一六一二)有名な江戸の幡随意上人台命により、九州の異教徒教化の帰途、上人の影像を拝されしが、広く一切衆生結縁のためには、余りにも土地辺鄙なのを嘆かれ、現今の地に移されんことを請われた。 家康公もまた随喜の余り、桃山城内の一宇を寄進され、輪奐の美、恣(ほしいまま)にしてここに長く念仏弘通の専門道場の基礎が確立された。 すなわち法然上人を開山とし、幡随意上人を中興と仰ぐ。 よって宝海山法然院源空寺と呼び定められる由縁である。 嘉永元年四月(一八四八)寺火に罹りしも、上人の御影像はことなきを得、現在もなお境内地九百坪を有し、結構昔を偲び得るものである。

出所:『圓光大師 法然上人御霊跡 巡拝の栞』



更新日:2015/03/03