法然上人二十五霊場
縁故本山
しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ
聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺
浄土宗西山禅林寺派 総本山
本尊 阿弥陀如来
御詠歌南無阿弥陀なむあみだ とばかりきくぞ をかえぬ
 このながらの ほとけなりけり
住 所
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備 考通称:永観堂

 禅林寺は、聖衆来迎山無量寿院という。 俗に永観堂と呼ばれるが、寺伝によれば、斉衡三年(八五六)弘法大師の法弟・真紹上人が、藤原関雄(せきお)の山荘を寺院に改めたのが創まりという。 二世宗叡は、清和天皇の帰依僧で、貞観五年(八六三)禅林寺の勅額を賜る。

 三世は、真如法親王という。 親王は平城天皇の皇子であったが、世の無常を感じて弘法大師に師事し、高野山に遍明院を興して住した。 時に弘法大師は「いふならく奈落の底に落ちぬれば、刹利も毘舎も隔てやはする」の歌を贈って慰めた。 晩年に天竺へ渡り、黄砂を超えて釈迦聖地へ向かう途中に果てた。 弘法大師の御影は、法親王の筆によるという。

 その後、五世覚如の代に栄えた。 覚如上人は宇多天皇の皇孫・敦固親王の子で、皇室の崇信を篤くしたが、末法の世に寺門は次第に衰微し、承暦年間(一〇七七〜)永観上人が復興した。

 法然上人ご誕生より二十年余り前に入滅した永観律師[1]は、当寺で念仏に励み、人々を教化された。 涅槃会に念仏修道されていたとき、本尊阿弥陀如来が、壇上より降りて行道に導き、律師をみかえりになったという。 来迎引接(らいごういんじょう)の大悲を示された霊場である。 後年、律師の徳を慕い、永観堂と称するようになった。

 叡山を出て念仏の法門を宣した法然上人は、律師の行徳を慕われたが、当時は真言の学匠で、平頼盛の子・静遍僧都が住持していた。 念仏門の隆盛を妬んだ彼は、法然上人の選択集を破斥しようと考えたが、披覧するうちに、渾然と念仏の教えを悟り、いまは亡き上人の御廟に詣でて懺悔すると『続選択文義要鈔』三巻を著し、浄土門に改宗して高弟西山上人を一代に迎えた。 のち上人の御分骨と御影を奉安。 浄土宗西山禅林寺派の総本山として今日に至った。

 所蔵する諸什物のなかに、国宝、重要文化財などが頗る多い。 殊に山越阿弥陀図、みかえり阿弥陀如来像は有名である。

出所:『法然上人二十五霊場巡礼』


[1]永観堂は「えいかんどう」と読みますが、永観律師は「ようかんりっし」が正しい読み方です。

更新日:2015/03/03