聖徳太子御遺跡 第八番 |
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天台宗 本尊 聖徳太子像 |
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聖徳太子誕生
古代史における最大の氏族・蘇我氏が本領とした奈良県飛鳥地方。 ここには推古天皇から元明天皇までの約1世紀の間、孝徳・天智・弘文を除いて宮都が置かれた。 また渡来人がもたらした高い文化が栄え、日本仏教興隆の地となったところでもある。 しかしいま飛鳥を訪ねても、どこにでも見られる平凡な田園風景といった印象だ。
そののどかな風景の中に、聖徳太子の生誕伝承地の一つ、橘寺が立っている。
太子生誕の地を伝える橘寺は、太子の祖父欽明天皇の別宮・橘宮、あるいは太子の父用明天皇の別宮・上宮が置かれたところとか。 太子の別称「上宮太子」は、太子がここで生まれ育ったことに由来する。
寺伝によると、推古天皇の14年(606)、太子が推古天皇のために「勝鬘経」を講讃しているとき、庭に蓮の花が1メートルも降り積もったり、南の山に光明を放つ千の仏頭が現れたり、太子の冠から日月星の光が輝くなど不思議な出来事が相次いだので、天皇が仏堂建立を命じたという。
創建当初は橘樹寺という尼寺で、東西870メートル、南北650メートルの広大な寺域に四天王寺式の伽藍配置の金堂、五重塔や60余の堂塔が並び立っていたといわれる。 しかし、天武9年(680)に失火のため十坊焼失。 また久安4年(1148)には雷火で五重塔を焼失。 さらに永正3年(1506)には多武峰の僧兵に襲われて全山が壊滅した。
現在の本堂(太子殿)、如意輪堂(観音堂)などは江戸時代に再興されたものだ。 太子が「勝鬘経」を講義したところと伝える往生院は、花が描かれた天井画が美しい。
創建当時のものでは、本坊の門の前の土壇に花の模様をした五重塔の心礎が残り、当時の繁栄した尼寺の面影をわずかに伝えている。 このほか本堂南側には「二面石」と呼ばれる二つの人面を刻んだ石がある。 人の心の善と悪の顔を表したものといわれ、飛鳥地方に数多く残る謎の石造物の一つとして名高い。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪西門≫
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≪本堂(太子殿)≫
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更新日:2019/09/23