聖徳太子御遺跡
第十四番
ほう りゅう じ
法隆寺
聖徳宗 総本山
本尊 釈迦三尊像
納経題字尺寸王身釋像
住 所
電 話
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備 考聖徳太子建立七大寺の一つ

斑鳩の太子

 「斑鳩いかるがの里」を訪ねるのは何度目だろうか。 この響きのよいロマンチックな里の呼称は、灰色地に黒い頭と尾を持ったイカルという野鳥が多く生息していたのでそう呼ばれたという。 今も矢田丘陵の穏やかな山並みを背に、小さな集落と緑の田畑が広がるのどかな田園風景を見せている。 しかしその風景も、訪れる度に現代風の住宅や店が建ち、少しずつ姿を変えている。

 その風景の中で今も変わらず古代の面影を残すのが、聖徳太子信仰の聖地のひとつとして知られる法隆寺だ。 約300平方メートルという広大な境内のいたるところ、1400年という気が遠くなるような昔の姿を今に伝えているのである。


 聖徳太子は推古天皇9年(601)に斑鳩の地に宮殿を造り始め、13年(605)に移った。 摂政である太子が、政治の中心地・飛鳥から約16キロも離れた斑鳩に住んだのはなぜだろうか。

 斑鳩は、竜田たつた道や大和川の水運を通じて当時の外交の表玄関である難波津に直結し、かつ大和の門戸にあたる位置にある。 つまり太子が斑鳩に宮を置いたのは、内外を結ぶ情報基地あるいは前線基地として絶好の場所だからというのである。

 太子の斑鳩宮があったのは、法隆寺東院の夢殿ゆめどのを中心とする一角だという伝承が平安時代から信じられていた。

 東院は天平11年(739)の建立だが、昭和9年(1934)から始まった伝法堂、絵殿および舎利しゃり殿の解体修理にともなう発掘調査で、斑鳩宮の跡と思われる掘立柱建物の遺構が検出された。 高床式の和風建築だったらしいが、屋根は茅葺や檜皮ひわだ葺ばかりでなく、大陸風に瓦も用いた当時としてはモダンな建物もあっただろうといわれる。

 また太子は、宮を造ってからまもなく父帝の用明天皇の菩提を弔うために近くに寺を建てた。法隆寺の前身・斑鳩寺だ。 その建立の年代については異説もあるが、太子が斑鳩宮を造立した推古天皇9年から15年の間に建てられたのではないかといわれている。 当時は太子の仏教修行の道場であり、新文化研究の学問所といった性格のものだったようだ。

出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋

更新日:2019/09/23