聖徳太子御遺跡
第十五番
ちゅう ぐう じ
法興山 中宮寺
聖徳宗
本尊 弥勒菩薩[1]
納経題字太子往生天寿国
住 所
電 話
URL
備 考聖徳太子建立七大寺の一つ

母の死

 聖徳太子の斑鳩宮があったのは、法隆寺東院の夢殿を中心とする一角だったといわれている。 その東院の地つづきに、太子の母穴穂部間人あなほべのはしひと皇女の宮を寺としたと伝える中宮寺が立っている。


 推古天皇の摂政として日本を中央集権体制が確立した理想の国にしようと様々な改革を行ってきた太子は、同時に熱心な仏教徒だった。 太子が推古天皇21年(613)に片岡山で飢人に食物や着物を与えた行為も、仏教の人間平等思想に基づく慈悲心の表れのひとつといえる。

 しかしこうした思想は、民・百姓を牛馬と同等ぐらいにしか見ていない権力者にとっては危険思想でしかなかった。 次第に太子は、仏教思想に基づく政治と現実の政治とのギャップに悩むようになっていった。 そして、再び政治の主導は大臣の蘇我馬子の手に帰した。

 そのようなとき、母の間人皇女が死去した。 『日本書紀』や『伝暦』はなぜかその死を記していないが、中宮寺に残る「天寿国曼陀羅繍帳てんじゅこくまんだらしゅうちょう」の由来文や法隆寺の「金銅釈迦三尊像光背」の銘文によると、それは推古天皇29年(621)12月21日のことだという。

 孝行心の篤い太子は母が病に倒れたとき、日夜手厚く介抱した。 翌年の2月、太子も病に倒れて帰らぬ人となるが、この看病疲れが原因の一つだともいわれている。

 中宮寺の「天寿国曼陀羅繍帳」は、橘妃があの世に往生した太子の姿を見たいと天皇に願い出、采女に命じて織らせたものだ。 残片しか残っていないが、太子に関する確実な資料であるとともに、朝鮮三国と深い関係にあった飛鳥文化を今に語る貴重な資料といわれている。

 中宮寺は当初、鵤尼寺いかるがのにじと呼ばれたが、斑鳩宮と岡本宮の中間にあったので中宮寺の呼び名がついたという。 草創時には現在地から約500メートルほど東方にあったが、室町時代に現在地に移された。 慶長7年(1602)に門跡寺院となった格式高い寺で、創建の飛鳥時代からずっと尼寺として続いている名刹である。

出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋


≪本堂≫

[1]寺伝では如意輪観音菩薩とされています。

更新日:2019/09/23