聖徳太子御遺跡 第十六番 |
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聖徳宗 本尊 薬師如来 |
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太子一族の滅亡
聖徳太子の斑鳩宮があった法隆寺東院から北へ15分ほど行くと、清楚な佇まいの寺門があり、それをくぐると右に金堂、左に重厚な姿の三重塔が立つ。
推古天皇30年(622)、太子の嫡男山背大兄王が、太子の病気平癒を祈願して、太子の妃の一人・膳大郎女の居住跡に建立したと伝える法輪寺だ。
太子の薨去後、推古天皇は皇太子をたてなかったが、皇位継承者としては山背大兄王と敏達天皇の孫の田村皇子という有力な候補者がいた。 しかし天皇は継承者をどちらとも決めず世を去ったので、それぞれを推す両派の間で激しい争いが起こった。
このとき、大臣の位にあったのは馬子から蘇我宗本家を継いだ蝦夷だ。 蝦夷は、山背大兄王を強く推す伯父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)を攻め滅ぼすという強硬手段に出て田村皇子を皇位につけた。 舒明天皇(629年即位)である。 推古天皇の死から9ヵ月も後だった。
その舒明天皇は在位13年で没し、次の天皇には皇后の宝皇女が立てられた。 皇極天皇(642年即位)である。 このときも山背大兄王を推す声があったが、蝦夷とその子入鹿が反対し、山背大兄王はまたも皇位につく道を閉ざされた。
入鹿にとって唯一目障りな存在が山背大兄王だ。 二度の機会に皇位につけなかったとはいえ依然として皇位継承権を有し、また太子の思想を継いで人望もある。 ついに皇極天皇2年(643)11月、入鹿は突然兵を挙げて斑鳩宮を襲った。 不意を突かれた山背大兄王は間一髪で生駒山に逃れたが、斑鳩宮は軍勢に焼かれ灰燼に帰した。
いったんは逃れた山背大兄王だが、思い直して再び斑鳩に戻り、一族もろとも自害して果てた。 ここに聖徳太子一族は滅亡した。 このとき、空に五色の幡や絹笠(諸仏や天女の印)が現れ、楽の音とともに光り輝いたという。
法輪寺は、太子が掘ったと伝える三つの清水の湧き出る井戸(東・前栽・赤染)があったところから「三井寺」とも呼ばれた。 その伽藍は法隆寺西伽藍の3分の2の規模を有し、なかでも三重塔は法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔とともに「斑鳩三名塔」と謳われた。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪山門≫
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≪金堂≫
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更新日:2019/09/23