聖徳太子御遺跡 第十七番 |
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聖徳宗 本尊 十一面観音菩薩 |
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山背大兄王の選択
聖徳太子の嫡男山背大兄王が建立したと伝える法輪寺から東へ道をたどって行くと、田んぼの中にこんもりとした森があり、その中から「斑鳩三塔」の一つ、法起寺の美しい三重塔が姿を見せている。
法起寺もまた、山背大兄王が母ゆかりの岡本宮を寺にしたのが始まりと伝える。
太子亡き後、斑鳩の太子一族を束ねた山背大兄王は、舒明天皇と皇極天皇との二度の皇位継承争いに敗れ、そして皇極天皇2年(643)に時の大臣蘇我蝦夷の子の入鹿の軍勢に襲われて、ついに一族滅亡という悲惨な運命をたどった。
普通なら、敵が襲ってくればできるだけ味方を募って戦うのが丈夫の道だと考える。 世間には太子に対する敬慕の念がある。 その子である山背大兄王に味方する者も多いはずだ。 また専横を極める蘇我父子を快く思っていない者もあっただろう。 しかし王はそうしなかった。 それが太子が教えた仏教の精神であると信じた。
山背大兄王ら太子一族が滅亡した時、入鹿の暴挙に父の蝦夷も、「入鹿の大馬鹿め。悪逆をもっぱらにして、お前の命は危ないものだ」と怒り罵ったという。 やがてこの言葉は真実となり、2年後の皇極天皇4年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(藤原鎌足)らのクーデターによって蘇我宗本家は滅ぼされ、大化改新が行われるのである。
法起寺は、舒明天皇10年(638)に山背大兄王が太子の遺命により、母の刀自古郎女の居宅だった岡本宮を寺にしたという。 山背大兄王も幼い頃はここで暮らした。 推古天皇14年(606)に、太子が橘寺での「勝鬘経」講讃に次いで「法華経」を講じたところとしても知られる。 岡本寺とも、またかつての地名から池尻尼寺とも称した。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪山門≫
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≪講堂≫
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更新日:2019/09/23