聖徳太子御遺跡 第二十一番 |
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融通念仏宗 本尊 阿弥陀如来 |
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鹿の菩提寺
聖徳太子が達磨大師と出会ったという片岡山伝説の地からほど近い三郷町勢野に平隆寺がある。 この地も斑鳩から近く、山を越えれば河内、大和川を利用すれば難波に通じる交通の要地だった。 太子も逍遥に、河内への往還にたびたび訪れたところだ。
寺伝によると平隆寺は、河内へ行く途中の太子が、犬に鹿が噛み殺されるところに遭遇し、その鹿の菩提を弔うために一堂を建てたのに始まると伝わり、施鹿薗寺とも呼ばれた。
「太子の舎人である宮池鍛師の犬が鹿の足に喰いついた。 可哀想に思った太子は舎人に命じてそれを放させたが、また犬は鹿を襲い、四つ足を三つに折ってしまった。 太子はこれを怪しんで夢殿で夢をみたところ、麗しき僧が東方から来て、この鹿は嫡(正妻)であり、犬は妾(側室)である。 この鹿と犬は過去の宿業で、もとはといえば過去に正妻が側室の子の足を折ったからだといった」。
太子には四人の妃があった。 太子の舎人の犬と鹿の確執を伝える『伝暦』の記述は、後宮に渦巻く妃間の嫉妬と、それに悩む太子の姿を暗に語っているようにも思える。 その投影が鹿の菩提寺の建立かもしれない。
平隆寺はまた平群寺とも呼ばれた。 この地を本拠とする平群氏の氏寺で、太子が逍遥の折に休憩所にしたという。 創建当時は四天王寺式伽藍様式の大寺だったといわれ、昭和49年(1974)の発掘調査で飛鳥時代の塔心礎の抜取穴や瓦が発見された。
太子ゆかりの施鹿薗寺の伝承地は、100メートルほど離れた旧境内にあたるという。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪門≫
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≪本堂≫
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更新日:2019/09/23