聖徳太子御遺跡 第二十番 |
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信貴山真言宗 総本山 本尊 毘沙門天 |
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信貴山の毘沙門天
大阪と奈良の府県境に聳える生駒連山の南端。 標高437メートルの信貴山に、広大な敷地を占める朝護孫子寺がある。 関西では一般に信貴山というと、山名よりも朝護孫子寺の名称として知られている。
朝護孫子寺は、聖徳太子がこの地に毘沙門天を感得して堂宇を築いたのが始まりと伝える太子ゆかりの霊場である。
寺伝によると、用明天皇2年(587)の蘇我・物部の戦いの折、蘇我軍に参戦した太子が物部守屋の本拠に向かう途中、この山の岩上に四天王の代表的神格である毘沙門天(多聞天)が現れ、勝軍の秘法と六目の鏑矢を太子に授けたという。 また、太子伝の一つである『聖譽鈔』は、戦いの最中に物部軍に追われて信貴山に隠れた太子が、一心に勝利を祈願すると山中に毘沙門天の銘を刻んだ石櫃が忽然と現れた。 太子はこの瑞祥に勝利を信じて再び進軍したと記している。
太子が四天王像を彫って戦勝を祈願したことは『日本書紀』や『聖徳太子伝暦』に記されるが、ある書物は、太子が四天王像を作ったのは信貴山の毘沙門天の指示によるものとしている。
太子はこの戦いの後、戦勝を感謝するために四天王を祀る四天王寺を建立したが、同時にこの信貴山にも方一丈の堂を建て、自ら毘沙門天像を彫って祀り、この山を「信ずべし貴むべし」山として「信貴山」と名づけたという。 これが朝護孫子寺の起源と伝えられる。
門前まで通じているバスを降りると、山腹の三重塔や本堂の朱塗りの部隊が遠くに見えている。 千体地蔵の前を過ぎ、仁王門をくぐると大きな張子の虎が迎えてくれる。 信貴山ではいたるところで虎に出会うことができるが、これは太子が毘沙門天を感得されたのが寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻だったことから、虎が寺のシンボルとなっているのだ。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
更新日:2019/09/23