聖徳太子御遺跡 第二十二番 |
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真言律宗 本尊 虚空蔵菩薩 |
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熊凝の道場
大和郡山市を南北に走る大和中央道が大和川と佐保川の合流地点に達するあたり、古い集落の趣を色濃く残す額田部寺町に小さな寺が立っている。 聖徳太子ゆかりの学問道場、「熊凝精舎」の跡と伝える額安寺である。
太子の病気が思わしくないと聞いた天皇は、田村皇子(後の舒明天皇)を見舞いに行かせ、「一日も早く病を癒して長く仏法を紹隆し、天下を経営して欲しいが、もしそれが能わなければ望みを聞かせてほしい」と尋ねさせた。 これに対し、太子は「私は熊凝の村に道場を造りましたが、営事いまだに終わっておりません。 どうか陛下が大寺に営み直してください」と願ったという。
太子の願いは推古天皇のときには実現しなかったが、後に田村皇子(舒明天皇)が太子の遺志をうけて百済川の畔(現広陵町)に移して百済大寺とした後、飛鳥に移され(高市大寺、のち大官大寺)、さらに平安遷都[1]とともに奈良に移された。
そして当初の額田部熊凝精舎の跡地には、唐に渡って記憶力増進・学力成就の「虚空蔵求聞持法」という密教の修行法を日本に伝えた道慈律師が、奈良時代に虚空蔵菩薩半跏像を祀る寺を建立した。 古くは額田寺、額寺とも称し、これが現在の額安寺だ。 そのとき道慈が安置した虚空蔵菩薩半跏像は、わが国最古の虚空蔵菩薩像として今も寺に伝えられている。
また、額安寺の寺号は、推古天皇の額に瘡ができたとき、当寺に祈願したところ跡形もなく平癒したことから賜わったとされる。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪門≫
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≪本堂≫
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[1] | 「平城遷都」の誤記と思われますが、出所の原文通り「平安遷都」と表記します。 |
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更新日:2019/09/23