聖徳太子御遺跡
第二十三番
さん ろん がく さん だい あん じ
三論学山 大安寺
高野山真言宗
本尊 十一面観音菩薩
納経題字太子遺願之大寺
住 所
電 話
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備 考『御案内』の納経題字表記は「太子遺願大寺」

大官大寺

 幹線道路から一筋奥へ入ると、まだのどかな田園風景が色濃く残る奈良南郊。 その中の小さな森に、かつては南都七大寺の一つで、東大寺、西大寺と並んで南大寺とも呼ばれた大安寺がある。

 縁起によると、聖徳太子の学問道場・熊凝精舎が起こりと伝える大和郡山市の額安寺と同じく、大安寺もまた太子の熊凝精舎に始まると伝えている。


 『聖徳太子伝暦』によると、推古天皇の27年(619)、太子が重病に伏したとき、天皇は田村皇子を見舞いに行かせ願い事を聞かせた。 これに対して太子は、熊凝の地に建てた学問道場を大寺に営み直してほしいと願った。 大安寺の寺伝では、田村皇子が数日後に再び私的に見舞いに訪れたときにも太子は重ねてこの願いを述べたという。

 この願いは太子在世中にも推古天皇の在世中にも実現しなかったが、舒明天皇となった田村皇子は、推古天皇の遺勅を受けて舒明天皇11年(639)から百済川の畔(現広陵町曾我川)に大規模な寺を造営した。 百済大寺と称し、屋根に石の鴟尾しびを載せたわが国初の九重塔を有するその姿は、人々の耳目を驚かせたという。 天皇自らが造営した官立の寺、いわゆる「大官大寺だいかんだいじ」第一号で、この寺を国家仏教の中心にしようとする意図のあったことが知られる。 しかしこの寺は完成後ほどなく、火災に遭って敢えなく焼失した。

 時は流れ、壬申じんしんの乱(672年)の後、飛鳥に戻った天武てんむ天皇は唐制による都城の計画を志し、新都にふさわしい官寺を考えた。 そこで新宮の北方、香久山かぐやまを背にする地に百済大寺を継ぐ九重塔を持つ高市大寺を建立した。 さらに和銅3年(710)、元明天皇の平城京遷都とともにこの大官大寺も移され、天平元年(729)には、聖武天皇が道慈律師に勅して、大唐長安の西明寺を模した堂塔の造営に励み、同17年(745)に「天下太平、万民安楽」の意味をこめて寺号が現在の大安寺に改められた。

出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋

≪南門≫
≪本堂≫

更新日:2019/09/23