聖徳太子御遺跡 第二十四番 |
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真言宗系単立 本尊 聖徳太子像 |
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秦氏の寺
京福太秦駅を降りると、目の前にどっしりとした広隆寺の楼門(南大門)が迫る。
市民から太秦寺の名でも親しまれている広隆寺は、高句麗の僧慧慈とともに、聖徳太子から最も信頼された秦河勝が建立した太子ゆかりの寺としても知られている。
秦河勝は秦氏の家長的な位置にあった。 秦氏は、百済系渡来人の漢氏と並ぶ新羅系の伝統的名族だ。 漢氏が主に大和を基盤としたのに対し、秦氏は山背、伏見、河内、近江を本拠地とした。 太秦の地名も、秦氏が絹をうず高く積んで朝廷に献上したところからついたという。
しかし、この当時は蘇我氏に重用された漢氏が力を伸ばしていた。 そこで河勝は太子に期待をかけたといわれる。
『聖徳太子伝暦』によると、蘇我・物部合戦のとき、勝利を祈願して四天王像を刻もうと太子のために白膠木を採ったのも、迹見首赤梼が射落とした物部守屋を斬ったのも、太子に従軍した河勝だという。 また、新羅仏教の源流である高句麗仏教の学風を受け、高句麗の慧慈に学んだ太子とは仏教面でも親交が深かった。
寺の縁起によると、広隆寺は推古天皇31年(623)に、秦河勝が亡くなった太子の追善供養のために建て、そのとき新羅国王から贈られた宝冠のある弥勒菩薩半跏思惟像を祀ったものだという。
この仏像が国宝第一号に指定された「宝冠弥勒」とも呼ばれる有名な半跏思惟像だ。 当寺の日本では用いられていない赤松で作られ、彫り方も日本の仏像とは異なっているといわれる。 右足を左の膝頭にのせ、右肘をついて思いに耽るその姿は、しばし心を奪われるほど美しい。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪楼門≫
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≪上宮王院≫
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更新日:2019/09/23