聖徳太子御遺跡 第二十五番 |
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天台宗系単立 本尊 如意輪観音 |
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日出ずる国の使者
京都の烏丸通りと六角通りの交差を東に入ってすぐのところに、その本堂の形から「六角堂」の名で親しまれる頂法寺がある。
頂法寺は聖徳太子の開基と伝わり、「いけ花発祥の地」としても知られるが、その道を開いたのは、遣隋大使として活躍した太子の側近・小野妹子だと伝えられている。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙なきや」。 日本からの国書を見て隋の皇帝煬帝は激怒した。
推古天皇の摂政として内政、外交に腕をふるった太子の功績の中でも、特筆すべき功績として語られるのが「遣隋使」の派遣だ。 百済、高句麗、新羅の朝鮮三国と親交を結び、さらに中国の隋と外交を開いて直接大陸文化を移入しようと考えた太子は、推古天皇15年(607)、隋に小野妹子の一行を使節として送り出した。 そして妹子が煬帝に提出したのが冒頭の国書である。
隋はそのころ高句麗征討を準備していた。 隋にとっては、朝鮮半島に少なからぬ影響力を持つ日本を敵に回すのは不利である。 だから、太子は少々の無礼な国書を以てしても対等の立場を強調しておく方が将来の外交上得策と考えた。 この読みが見事に的中する。
太子の策も見事だが、その特命を受けて二度も大海を渡った妹子の功績も大きい。
妹子は近江国滋賀郡小野の豪族の出身で、太子の少年時代からの側近である。 蘇我・物部の戦いの時も太子に従軍した。 太子は戦勝を祈願して四天王像を刻んだが、蘇我馬子(増長天)や秦河勝(多聞天)と並んで、妹子も「持国天」のモデルにされたという。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
更新日:2019/09/14