聖徳太子御遺跡
第二十六番
なか やま でら
紫雲山 中山寺
真言宗中山寺派 大本山
本尊 十一面観音菩薩
納経題字太子馬蹄石
住 所
電 話
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備 考

石の唐櫃からと

 阪急宝塚線の中山駅を出ると、店先に「おれいさらしあります」と手書きされた看板や貼り紙がされている土産物店などが並ぶ商店街がある。 その通りを100メートルほど行くと、城郭を思わせるような豪壮な二層の山門が聳えている。 聖徳太子によって開かれた日本最初の観音霊場と伝える中山寺だ。

 本尊の十一面観音は、太子の前世の一身ともされる古代インドの阿踰闍国の王妃・勝鬘夫人をモデルにしたといわれ、古くから安産、子授けの観音として全国から篤い信仰を集めてきた。 商店で売っているさらしは、お寺で「安産の腹帯」を受けた妊婦さんが、無事出産のお礼参りの折に納めるものだ。

 山門をくぐり、参道を過ぎて石段を上ると、羅漢堂や閻魔えんま堂、大黒堂がある。 大黒堂の横手には、「石の唐櫃からと」と呼ばれる横穴式古墳があり、玄室には石棺が安置されている。 14代仲哀ちゅうあい天皇の妃・大仲おおなか姫の墓だと伝えられ、兵庫県の史跡第1号に指定されている。


 『古事記』によると、大仲姫(大中津比売おおなかつひめ)はこの地方の豪族大江氏の娘で、仲哀天皇の妃となって香坂かごさか王、忍熊おしくま王の2皇子を産んだ。 しかし天皇は、開化天皇の流れをくむ息長帯比売おきながたらしひめ神功じんぐう皇后)を皇后としていた。

 ある年の春、九州へ熊襲くまそ討伐に行った天皇が筑紫で崩御した後、大仲姫の2皇子を支持する派と神功皇后派との対立が起こった。 神功皇后は朝鮮半島に遠征するが、香坂王と忍熊王はその帰路を待ち伏せて皇后と品陀和気ほむたわけ皇子(後の応神天皇)を討とうと出兵した。

 しかし戦いの直前、兄の香坂王は狩場で猪の牙にかかって不慮の死を遂げた。 そこで忍熊王は一旦軍を引いて宇治に陣取ったが、近江の瀬田に追い詰められて琵琶湖に入水して果てた。

 二人の皇子を亡くした大仲姫のその後はわからないが、現在の中山寺のある大柴谷に葬られたといわれ、それが先の「石の唐櫃」だとされている。

 そして時は流れ、用明天皇2年(587)この地を訪れた聖徳太子が大仲姫母子を供養するために堂塔を建立したのがこの寺の始まりであるという。

出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋

更新日:2019/09/15