聖徳太子御遺跡 第二十七番 |
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天台宗 本尊 薬師如来 |
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法師かえり
加古川市の中心街の一角、こんもりと茂った緑の森の中から古刹の堂塔が見え隠れしている。 聖徳太子が高句麗の僧恵便のために建立したと伝える鶴林寺だ。
鶴林寺は「刀田の太子さん」の名で親しまれ、また、二百数十点にものぼる文化遺産が残るところから、奈良斑鳩の法隆寺に対して「西の法隆寺」とも呼ばれている。
欽明天皇13年(552)の仏教公伝以来、蘇我稲目と物部尾輿を中心に、崇仏・排仏の論争が繰り広げられた。
このような中、高句麗から僧・恵便が来朝したが、両派の激しい争いに、それまで日本に来ていた僧の多くは帰国してしまい、また残った僧たちも危険を感じて身を隠した。 恵便も還俗して加古川の畔、現在の鶴林寺の付近に隠れた。
両派の対立は、用明天皇2年(587)の崩御に伴う皇位継承をきっかけとした朝廷を二分する争いに発展し、馬子は諸皇子や諸豪族とともに守屋を滅ぼし、三十数年にわたって続いた崇仏・排仏論争も終止符を打つことになる。
鶴林寺は、崇峻天皇2年(589)に聖徳太子が秦河勝に命じて恵便ゆかりの加古川の地に精舎を建て、釈迦三尊像と四天王像を安置して恵便を導師として招き、「刀田山四天王寺聖霊院」と名づけたのが始まりと伝える。
養老2年(718)に武蔵の大守大目身人部春則が、太子の遺徳を顕彰するため七堂伽藍を整えた。 さらに、天永3年(1112)に鳥羽天皇の勅願寺として「鶴林寺」の扁額を受け、以来いまの寺名となった。 「鶴林」は、釈迦牟尼の涅槃に際し、沙羅双樹の緑葉が鶴の羽のように真っ白になった故事に因むという。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪大門(仁王門)≫
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≪本堂≫
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≪太子堂≫
屋根の形が変なのは、もともと方三間の仏堂(法華堂)に、一間分の礼堂(写真右側)を付け足したためだそうです。 |
[1] | 2001年当時のご住職です。 |
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更新日:2019/09/23