近畿三十六不動尊
第五番
たか つ ざん ほう おん いん
高津山 報恩院
真言宗醍醐派
本尊 不動明王
札所本尊北向不動(石造立像)
御詠歌まをふらて くなんをすくふ ぐわんなれば
 ふどうのちかひ たかつきたむき
住 所
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備 考

 あらゆる病気を治して下さるお不動様として、そのあらたかな霊験にすがる信者は多く、参拝の人々はあとを絶たない。 昭和初期には、この附近の商店主、従業員、おかみさん、水商売の人達等が、朝夕、日本橋の聖天さん、高津こうづさん(高津宮)、ここ北向きのお不動さん、天王寺の融通さん、日本橋三丁目大乗坊の毘沙門さんの順にお参りしていた。 それが朝夕の散歩であり、仕事を終えての憩いであり、また社交や信仰の場でもあった。 しかし、今次の大戦によって、このお不動様も、建物の全てが焼失してしまった。 残ったのは、ただお不動石仏のみ。 ここからの再建は、文字通り苦難の連続であったが、不動様の御加護と、現住職藤崎孝行師の血の出る様な努力、信者のたゆまない協力とによって、まづ本堂、次に護摩堂、更に庫裡くり、祖先の霊を祀る真如閣、それから山門、最後には鉄筋三階建に納屋と建てられていった。 これら全てが完成したのは、戦後約三十年経た、昭和四十九年であった。

 この寺の開創を尋ねてみるに、江戸時代初期の高僧、良遍僧正〔宝永六年(1704)歿〕が、徳川第四代将軍家綱の寛文年間(1661−72)に、開いたものであると云う以外あまりわからない。 多くの資料は、戦災のため焼失したことはまことに惜しいことである。 現存の資料としては、元禄四年(1691)の古い地図に「北向き不動」の名が載っている。 それはともかく、江戸時代には、この北向き不動様は栄えに栄え、庶民信仰のメッカとなった。 しかし、明治の初め、廃仏棄釈のの波で、すっかりすたれ、中興の祖と仰がれる先代、藤崎孝教師が入寺した明治三十八年には非常に荒廃していたとのことである。 師はその半生を北向き不動様の復興に捧げ、昭和十二年一月の不動様の縁日の二十八日にこの世を去った。

出所:『近畿三十六不動尊』から抜粋


 地下鉄谷町線または千日前線谷町九丁目駅から北西へ200m。
≪北向不動≫
 楠の枯木を背にする北向不動ですが、反対側の背中合わせにもう一体の不動明王が祀られています。 南向不動とでも呼ぶべきこの不動明王は元の北向不動で、戦災の火炎で顔が欠けてきたため、現在の北向不動が造られたそうです。

更新日:2018/11/02