近畿三十六不動尊 第八番 |
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真言宗醍醐派 本尊 五大力不動明王 |
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およそ寺らしくない寺である。 従来の日本の木造建築の寺のイメージとは全く違う。 ここ宮山の丘陵の上に建てられた二層の建物は、実にどっしりとして、壮大なものである。 正面から見ると、丘の斜面をとり入れた建造であるため、三層に見え、なお荘重である。 千八百坪の境内に歩を進めると、右側に不動石仏及び護摩壇があり、その右から奥に向かって白鹿堂、納骨堂、少し上がって護摩堂と並び、いづれも、大阪市内から移築した。
この寺の開基は、弘法大師と伝えられ、寺伝によると、大師が諸国巡行中、菟我野の地(現在の大阪市北区菟我野町[1])で七光の石を見つけ、これを五輪法塔に仕上げ、不動明王の梵字を刻んで本尊とし、不動堂を建てて、そこに祀られたのである。 それから千百有余年お間、嵯峨天皇、後鳥羽天皇の勅願所となり、豊臣、徳川の庇護を受けながら、菟我野の不動様として広く庶民の信仰を集めて来た。 また、幾度の戦乱にもあい、特に先の大戦には、堂宇悉く灰燼に帰した。 先代住職の藤沢旭照大和尚が、寺の再建を発願、昭和二十五年から、三十四年までかかって再建した。 しかし、寺周辺が今のような歓楽街となり、当山に伝わる護摩供修法に支障をきたすことになったので、旭照大和尚が青年時代に修業をした地、豊中市宮山周辺を移転の候補地とした。 この計画は、実現することなく、三十六年旭照大和尚は歿した。 先師の遺志を受け継いだ現住職藤沢寛好師は、各方面の協力を得、三十九年より三年の歳月を費し、四十一年八月七日、現本堂、客殿を完成した。 菟我野の跡地には、いま法華クラブが建てられている。
出所:『近畿三十六不動尊』から抜粋
阪急宝塚線豊中駅からバスで宮山下車、西へ300m。 |
≪客殿≫
正面の青い壁いっぱいに描かれた不動明王。 ご本尊の五大力不動明王は二階の本堂に祀られています。 |
[1] | 現在は「兎我野町」の漢字が用いられています。 |
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更新日:2018/11/02