近畿三十六不動尊
第十一番
とっ こ さん かぶら い じ
獨鈷山 鏑射寺
真言宗単立
本尊 大日如来
札所本尊不動明王(木造半跏座像)
御詠歌百千代に かけて高鳴る かぶら矢を
 民安かれと はなつおん寺
住 所
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備 考

 海抜三百五十米の鏑射山を中心としたこの地方には、縄文時代から人が住んでいたことは、その時代の土器等が出土したことによって明らかで、鏑射山頂には、古代祭祀の神奈備の遺跡がある。

 鏑射寺は、今から千三百数十年前、聖徳太子が、仏教弘通ぐづうの道場として、寺院を建てられたのがはじまりと云われ、道場町の地名も、道を修め鍛錬の場として栄えたところから、今にその名が残されているのである。 そして、時を経るにつれて堂塔伽藍が次第に建ち並び、日夜唱経の声が山に響き、香煙が紫雲となって一山にたなびき、寺勢愈々隆盛を極めたのである。 しかし、南北朝の時代に至って、建物の殆んどが戦禍で焼失した。

 その後、嘉永年間(1848〜54)になって、京都の伝通院にて修業を積んだ、豊後の人、勇阿上人が、三田の正覚寺に逗留中、ある日この山に登り、霊感を得、南北朝依頼荒廃していたこの寺を復興するため、自らは木の実草の根を喰い、托鉢を続けながら、滝に打たれて修業する等、難行苦行の末、伽藍を整え、今日山内に見る西国三十三カ所、四国八十八カ所の石仏の造営を完成した。 文久三年(1863)のことであった。

 明治に入り、その六年(1873)、三田九鬼藩の一部不逞藩士が、神社仏閣を襲い、焼き払い、或は破壊した。 当寺も、当然襲撃目標にされて焼失したが、本尊及び石仏は奇跡的に難を免れた。 不思議なことに暴徒は皆その後まもなく、不治の病になる等悲惨な運命を辿ったということである。

出所:『近畿三十六不動尊』から抜粋


 JR宝塚線道場駅から徒歩1.7km。
≪護摩堂≫
 不動明王像は、春日神社の神木である楠から彫り出された一木造りです。

更新日:2018/11/02