吉祥院天滿宮詳細錄 第二章 p12 - 13
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第二章 祭神の御功蹟と國民の模範人物たること

夫れ祭神菅原の御高德は言文を以て盡し難けれども其の一端を申しべん。

は性穩健にして文武兩に精し給ひ、才智衆を㧞き政事上、文學上、信仰上、はた、德上、趣味上何一つ缺くることなき當代の師範にして安朝じての代表的人物たり、加ふるに忠孝を以て一貫し、原氏の大勢力ある難關中に立ちて、能く私曲なき政を布き給ふ。 又宇多醍醐の兩帝より別けての御寵愛を受け、位人身を極むと雖名利の念無く、身を鴻毛の輕きに比し任を九鼎の重きに置き、一意誠心君國の爲めに猛せられしかば、却りて原時等の讒にひ御痛はしくも筑紫の太宰府にされ給ひしも上下を恨まず彼地の愁霧に薨じ給ふ。 然れども天何んぞ之れを棄て給ふべき。 誰人か菅の御高德を仰ぎ奉らざるべき。 神威赫々として四方に輝き代々の帝の御崇敬は更なり國民の敬慕すること月日と共に厚く三歲の兒童と雖も知らざる者なし。

き御社は多けれ共菅を祠れる社程多きは他に比類なし。 又伊勢大神宮は別として、六社や二十二社中に入り給ひ、且つ別格を附せずして官中社に列せられ給ふ。 加ふるに御神號を天滿宮と宮の一字を贈られ玉ひ又國家の功臣として現今貳拾圓紙面にまで載せられ玉ふ。 和氣淸麿楠正成等と共に並び稱せられ護國の神として國民的崇を受けられその行狀人格共に國民の最高模範者たることは不噬言を要せざるなり。

更新日:2021/02/13