第三章 吉祥院村は菅家累代の領土にして菅家御本邸の有りし所なり。隨つて菅公御降誕御成育ありし地にして御年十八歲より山陰亭轉住し給ひし迄での御事跡と吉祥院村との關係
抑當地は人皇第五十代桓武天皇延曆三年十月大和國奈良の都を山城國長岡に遷らせ給ひて十年を經たるに此の都は狹隘にして不便なりとて同十三年十一月長岡の京より宇多の新京(今の京都)に遷らせ給ひし時菅公の曾祖父從五位下治部卿菅原古人卿及び祖父正三位左京太夫菅原淸公卿も供奉して移り給ひしが帝は大內裏の外近き坤の方(凡南部)の此の地を菅家の領土として賜ひければ古人卿淸公卿は此地に御本邸を構へて住み給ひ此所より朝廷に御出仕遊ばされしなり。
乙訓郡長岡にある天滿宮はもと古人卿幷淸公卿の一時住み給ひしが遷都と同時に引き拂ひて當地に轉住し給ひし跡なりといふ。
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(一)雍州府志 神社門下 干中
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『吉祥院天女ノ社 在二吉祥院一始菅原古人斯處爲二宅地一淸公相續住レ之云々』
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(二)京雀 七卷 干中
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『山しろの國平安城今の京のはじめの事付將軍塜の事』[1]
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こゝに人わう五十代桓武天皇延曆三年十月にやまとの國ならの宮古を山しろの國にうつされて長岡の宮にすみ給ふ事十年にしてこの京ははなはだせばしとのたまひておなじ歲十二年正月に大納言藤原小黑丸參議左大辨紀古作美大僧都賢璟等をつかはして山城國葛野郡宇多村を見せられしに三人ともに奏し申されけるはこの地左に靑龍の流水あり右に白虎の大道あり前に朱雀の澤畔ありうしろに玄武の高山ありまことにこれ四神相應のれい地なりと
これによつて延曆十三年に長岡の京よりこの平安城にうつり給ふ。
公卿せんぎありて王城けんご長久のためとて長八尺の土人形にむかひ祝し給はくかならずこの京の守護神となり後の世にもしこの都を他所にうつす事あらばその人を罰せよと宣命ありてひがし山のみねに一丈あまりのあなをほらせ西むきにたてゝ埋まれたり、今の將軍塜これなり
それより寬文四ねんきのとの申[2]今歲八百餘年にあまれりこの京は地景めでたく王業久しかるべき平安の都城なれば四はういよ/\ひろくさかえて民の家々もたちつゞき町々行かふともがらたかきいやしきすべて市のごとし。』
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(一)[3]菅家傳第一 干中
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『土師古人 宇庭男一無二土師二字一 天平勝寳二年 誕生 桓武天皇御侍讀延曆廿一年入唐 同廿四年歸朝[4] 給二學問料一 補二秀才一 任主殿頭 任二式部少輔一 任遠江守 叙從五位下 任二大學頭一 兼二文章博士一 任二彈正大弼一 任 辨 任式部大輔 任治部卿 任播磨 任信乃 弘仁十年正月十日七十才卒
天穗日命十四世孫野見宿禰垂仁天皇御宇賜土師臣姓三世孫身臣仁德天皇御宇改賜土師連姓十一世孫古人等天應元年六月廿五日改賜菅原姓』
菅家御移住と同時に奈良菅原伏見より共に從ひ來りし菅家の後裔六家の住宅も程近き東部の地を與へて住まはしめ菅家の事務を援助せしめらる
これを六田家ともいふ。
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(一)安田英之助氏家記 干中
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『口碑には神田、福田、安田、恩田、寺田、岩田、六田家は菅公の後裔にて同六家の宅地跡なりとも言ふ、寺田、岩田の二家は左遷のときに同行せりと言、六田家の天滿宮の別當職たりしことは日野家の家記に明なり』
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(二)國花萬葉記 二ノ下田園部 干中
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『六田 鳥羽の邊り也』
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(三)京都藂書 京羽二重卷一 干中
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『六田 鳥羽の邊り也』
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(四)名所都鳥卷第四 干中
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『六田 鳥羽のほとり也、大和に同名有』
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(五)洛陽名所集十一卷 干中
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『六田 此處は鳥羽のあたり也。いとあはれなるながめ有けるとぞ』
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(六)近畿曆覽記東寺往還 干中
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『是より吉祥院に至る、高二千石の所なり。
傳聞古人初て菅原の姓を贈ひ淸友に傳り遣唐使を勤む。
(中略)淸友歸朝し吉祥天女を勸請あり、菅家代々の氏神とせり。
(中略) 凡そ此の村に天神被官の士七十三家あり
(中略)右七十三家の內藪田、石原、恩田、交々社務職を勤む。
其の次に社家並十家、安田、福田、神田等是也。
其の餘も神職を勤む。
吉祥院村二千石悉く神領たり其の內七反田御供田なり。
秀吉公の時社務勘氣を𫎇り神領不レ殘被二沒收一故に七十三家も多くは武家へ奉公せり。
(贈は賜、友は公の誤か)
(註) 北條町の神田定吉氏の御先祖に丹波國の或代官を勤められしことありといふ。
菅家の後裔なるが何れより分れられしか不詳なれど古き系圖を秘藏あり。
菅原淸公卿は仁明天皇の御宇承和六年正月七日は御侍讀奉仕の際老弱の故を以て牛車に乘りて通勤する事を許す宣命を左の如く𫎇り給ふ。
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(一)菅原家傳第一及菅儒侍讀臣之年譜 干中
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『勅聽乘牛車到南大庭梨樹依老羸弱行步有難之故也』
吉祥院村は元白井の庄石原邑或は石原卿[5]と稱し、上石原、中石原、下石原の三ケ村の總稱にして菅家の御領土は上石原に屬す。
其頃は東は鳥羽街道(大阪街道)、西は桂川に近づき、北は唐橋街道(西國街道)より南は本社以南數町の地點に至り鳥羽野と境し東西十二町、南北凡十町あまりある地域にして甚廣し、
通ずるに八間道路を以てせりと當社記錄にあり。
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(一)近時石原卿[5]の變名
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前記の中石原は字石原上の町といひ、下石原は字石原下の町と稱せしが近年又改名して字石原下の町を字石島とし、字石原上の町を字石原と稱して舊名今に存す。
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(二)大日本地名辭書 干中
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『吉祥院村は桂川の東岸にして舊京城、西九條の南に接す、其南部を大字石嶋と云ふ。
石原村の謂ひ(舊石原卿[5])乙訓郡久世村より本村に通ずるを藪渡と云ふ云々』
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(三)山州名跡志卷之十一 干中
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『吉祥院(所名)在東寺四塜申酉方鳥羽街道西七八町』
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(四)山城名勝志十六 干中
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『吉祥院村 在二吉祥院森西一本名石原村云』
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(五)山城名跡巡行志五 干中
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『吉祥院村名 在二四塜西鳥羽街道西一舊名上石原屬邑二又有二新田一』
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(六)扶桑京華志二 干中
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『吉祥寺邑 在二東寺西南一菅氏之宅地』
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(七)京羽二重織留卷之一 干中
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『紀伊郡 岡田、大里、紀伊、鳥羽、石原、拜之、深草、石井
右郡の村號倭名類聚抄幷に十芥抄所レ記載レ干レ茲考レ之今の村名と多くは相違す、時世によりて變易するものか』
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(八)名所都鳥卷五 干中
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『上石原 東寺の西南にあり。今吉祥院此所にあり。又このほとり古城の跡三ヶ所に有』
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(九)雍州府志九 干中
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『上石原 在二東寺西南一今吉祥院在二斯處一凡此邊有二城址三箇所一未レ詳二誰某住一焉』
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(十)和名抄 干中
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『石原卿[5] 今吉祥院村南嶋村北有二石原村一桂川東也』
淸公卿は庭上に文章院を建立し又吉祥院を建て庭中に御池等も築き給へり。
(註) 文章院は學問所にして多くの學者相集り種々の硏究及發表等を行ひし所なり。
此の文章院に孔子を祀れるを以て孔廟とも聖堂とも稱す。
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(一)菅家傳第一 干中
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『淸公卿は 同(承和)九年十月十七日 薨吉祥院八講是也。
建吉祥院又建文章院西曹司始祖也』
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(二)吉祥院天滿宮舊跡 干中
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御池 菅原古人卿菅原淸公卿相議り庭中に築き給ひし御池にして本社より凡二十間北に、東西に長く今猶存す。
是より當地里人は御邸宅を菅原殿或は菅原御殿と尊稱しけるが吉祥院御建立後は吉祥院に對して菅原院と申せしなり。
これを嗣子即ち菅公の父從二位參議是善卿に傳へ給ふ。
[1] | 「』」は余分だと思いますが、原文のまま表記します。 |
[2] | 「きのとの申(乙申)」という干支は存在しません。寛文4年の干支は甲辰(きのえたつ)で、寛文5年は乙巳(きのとみ)です。
どこをどう勘違いされたのか??? |
[3] | 「(三)」の誤植ですが、原文のまま「(一)」と表記します。 |
[4] | 土師古人が遣唐使だったように読めますが、遣唐使だったのは古人の子の清公です。 |
[5] | 「郷」の誤植にように思いますが、原文のまま「卿」と表記します。 |
更新日:2021/02/23