吉祥院天滿宮詳細錄 第三章 p22 - 34
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延曆二十三年二十一年ともあり)七月淸卿は桓武天皇の勅により唐使として入唐す。 此時のことなり漸く明州の界に着かんとする頃海上俄に惡風起り羅刹國に沈まんとす。 時に比叡山の開山傳敎大師入唐求法のため御同なり淸卿等の爲に大吉祥天女に祈らせ給ふ。 大吉祥天女と申したてまつるは求成就の大功德まします故御祈り有し也。 忽に大吉祥天女空中に現れ風止波靜なり。 淸卿終に無恙使節を勤め歸朝し給ふ。 願成就の故淸卿は傳敎大師とはからひまし/\て淸卿自像を彫刻し給ひて、城天皇御宇大同三年戊子六月庭上に一宇を建立し像を安置し吉祥院と號し國家鎭護の祈禱とし又以て菅家守護の本とし給ふ。 淸卿は多才故佛像をも能らせ給ひけるとなん。 是より利生日々に新なり。 は山城國なり。 山城は古は山背と書靑山四周り別て北方に山々重疊せるにより山うしろとなづくとかや天女背後畵七寳山々を背にしてましますといふ經文の說相叶り天女山背國にまします事誠深因緣也 (當社緣起干中)

(一)菅家傳第一 干中
延曆二十一年七月淸桓武天皇の勅により唐使として入唐同二十四年歸朝云々 淸卿建吉祥院云々』
(二)扶桑京華志三 干中
『在東寺西南吉祥御願』
(註) は天女 は菅家のなり
(三)日工集 干中
『吉祥院京本寺南(仁和寺也)有小院吉祥院天神之本願建也 爲北野長者人必先參禮謂之拜堂昔天神之使唐國中値風波難祈念之頃忽見吉祥天女現身空中歸本土建寺以吉祥爲名云按唐使有菅淸者菅之祖延曆二十三年秋七月與葛野麿石川同發德宗貞元二十年明年大使賀能着長州秋入洛(淸而歸)盖此時之事也乎』
(註) は祖なり
(四)吉祥院天滿宮古記錄 干中
『吉祥院のことを「吉祥天女院」とも「南北山海中寺」とも號し現今にては吉祥天女樣といひ堂宇を吉祥院天女堂と稱して存す。[1]
(五)傳敎大師傳 干中
大同三年戊子六月建立吉祥院』
(六)京羽津根 干中
『吉祥院天滿宮 洛陽未申の方東寺四ツ塚より三町吉祥院村に在。 祭る處北野の神と同體なり、當社は菅家代々の領地にして別業ありし地なり 天仁二年二月二十五日菅神の靈吿にいはく忌日は北野にて行へは當にて八講行ふべしと也。
(註) 別業にあらず御本邸なり。 天仁なり。
吉祥天女の社あり其昔菅家の祖淸卿入唐して歸朝の砌難風にあひし時吉祥天女を祈願しに無難歸洛し、當地に勸有しと也。』
(註) 歸朝入唐のりなり
(七)大日本史 干中
最澄常に入唐の志あり唐使菅原淸に從ひて唐に之き云々』
(八)十芥抄 干中
『吉祥天菅家御願 在四塜(羅城門跡)西南四五町許』
(九)國花萬葉記別號山城名誌羽二重 干中
『吉祥院宮 東寺のの方吉祥院村林の中に有。 始淸祈願の故有て吉祥天女を此に勸す云々』
(一〇)大日本地名辭書 干中
『吉祥院は菅原氏の氏寺にして今淨土宗に屬す。 元慶[2]四年菅原淸創建[1]
(一一)山州名跡志卷之十一 干中
『吉祥院 在同林中 堂南向本吉祥天女 立像許 作傳敎大師云々 初め菅家の祖淸延曆二十三年七月に唐使として異朝に到る明州のんとするに海上風發つて漂流せんとす。 傳敎大師始め最澄たりしとき入唐求法のために同にあり即ち起て吉祥天女の法を修して其の安を祈る。 法驗感にこたへて忽ち順風と成つて無異義入唐其後歸朝せりに淸卿と心を合せて吉祥天の像を立す。 淸即ち此地を點して堂宇を建立して天女を安置し號吉祥院也』
(註) 尺は六尺か若くは本天女の像一時土中に埋めたる代り佛の寸法ならん。 作傳敎大師とあるは作淸卿とすべきなり。
(一二)日工集 干中
本寺南 有小院曰吉祥院天神之祖本願建也』
(註) 本寺は京本寺のこと、は淸卿のことなり。
(一三)雍州府志 神社門 干中
『淸入唐歸朝時海上風忽變將覆[3][4]時祈吉祥天女風止無恙歸京後勸吉祥天女云々』
(註) 歸朝の時にあらず入唐の時なり。
(一四)同 寺院門 干中
『吉祥院 菅原淸建也、淸唐大使洋中大風將覆干時三井智澄爲求法入唐在中相共祈吉祥天女干時風止無恙而歸朝時智澄天女像安置之於宅地今吉祥院是也』
(註) 智澄は最澄のことなり又天女の像は淸卿のるところなり。
(一五)つきねふ七 干中
『吉祥院 唐橋の南、東寺の未申に森見ゆる其內なり。 菅亟相の御影、吉祥天女を安置す。 云々 諸々傳に功德天を吉祥天といへり。 至方能令下二衆生諸快樂
(一六)扶柔[5]京華志二 干中
『吉祥邑 在東寺西南菅氏之宅地淸入唐之時洋中風惡祈吉祥天歸舶旡[6]恙祠其神今尙存焉』
(詩[7]) は院のなり。
(一七)京都藂書京羽二重卷四 干中
『吉祥院 東寺の南(寺中)』
(一八[8]都名圖繪卷四 干中
『吉祥院には吉祥天女を安置す傳敎大師の作なり、云々、菅家の祖淸卿延曆二十三年唐使として異朝に趣く時に中にして風波の難に値ふ。 此折しも傳敎大師求法の爲に入唐し則ち同して吉祥天女の法を修す忽ち順風吹いて歸朝せり故に傳敎大師吉祥天女の像をる、淸卿は此地に堂舍を建てゝ此像を安置し吉祥院と號す』
(註) 吉祥天女の像は淸卿の作なり。
(一九)山城名跡行志第五 干中
『吉祥院 在當村鳥居(東向)本吉祥天女(傳敎作)右脇壇[9]傳敎像、左脇壇淸像』
『菅家祖淸卿入唐時與最澄明州湊而風發漂其時最澄吉祥天法歸朝後淸最澄心作天女像此地其後建
(二〇)洛陽名集卷之十一 干中
『吉祥院 菅家御願 此院は東寺の西なり。 吉祥天女の像有』
(二一)京師覧集卷之九 干中
『吉祥院村 これなる院は菅家の御願にして吉祥天女を安し侍る。 されば天下治る時は津々として天顏喜び侍臣喜ぶといへば周の文王は衆と靈臺に慰こそ流行の廣きところなり。 一肉をいみて楚の憂をさり。 四タイを陳へて齊の治まるを悅は女といへどもたのもし。 獨り貿色獵を好むはうれたき心ならん。 褒姒は放火を笑ひ。 姐己は炮烙を樂む、又つたなし。 或は陶朱は五犢を樂み。 活然は一壺を喜。 哄堂滿座に聞へ。 胡盧燕石による。 衞玠を談ずれば子絕倒し。 祖事は長孫始て生る時。 に顏を解。 雉を射て漸く咲[10]ひ。 或は虜を破て履齒ケキシオルヽ事をしらず。 士のて萬戶に封せられ。 誕彌エンヒあしたにやすく。 魁梧そらに聞へ又八珍を口に味ひ絲竹を耳にふるゝ時は。 一旦歡喜をなすといへど。 跡より患難起るは世のためしなれば人世口を開て笑ことまれなり。 藥山が一笑は澧陽九十里に聞へ。 要覽の四の喜は三菩提に至りや。 淵明道勝て戚顏なしといひ。 顏子が一瓢の樂み。 榮期は三樂をうたふもあり。 我が邦には千觀つねに嗔れる色もなく。 徵笑のみ含ければ世俗その像を見て笑佛と稱す。 これらみな心に物あればなり。 此天女のいつもにこやかにして。 福祐の盡ざるぞ。 いかなる德なればと思ひて。
ナセドモ。 必別日悲。 周文靈囿袖。 段殷紂酒池巵。 顏枯華曉。 眉披優ハツトシ。 人難口笑。 君永イテナリ。』
(二二[8]畿曆覽記 干中
『是より吉祥院村に至る。 高二千石のなり。 傳聞古人初て菅原の姓をひ。 淸に傳り唐使を勤む。 歸朝の時海上にて風俄に發り舟巳に覆んとす。 干時在唐留學の傳敎大師も亦在舟中の勸により舟中にて吉祥天女に祈り玉へは、即時に風止舟無恙淸歸朝し。 是の六町四方を乞いけ、吉祥天女を勸あり。 菅家代々の氏神とせり。 (○印は記なり)
(二三)吉祥院村三善院緣起卷物(天承元年五月十八日書寫之竟) 干中
に吉祥天女院者傳敎大師開基の靈地、菅淸卿建立の精舍なり七堂伽監玉を㻲ては金容の妙色を餝り三十六[11]を並ては淸淨のみこへ𧦧る事なし。 天女經に謂吉祥寳莊嚴世界とは豈此を去る事からんや。 菅亟相に到りて寺院榮昌たり左し給ひて後、外護なれば敎化陵夷し伽藍頽敗す』
『傳敎淸入唐 延曆二十三年七月
     歸朝 同 二十四年
吉祥院建立   大同三年六月
天神勸    四年
(二四)吉祥院村三善院卷物(元祿四載辛未五月五日謹書寫焉) 干中
『吉祥天女院建立之略緣起、吉祥天女建立の濫觴をぬれば延曆二十三年秋七月傳敎大師入唐求法の詔をうけ唐使菅原の淸卿にしたがひ溟渤にうかひ明州の堺に着給はんとし給へるとき惡風俄におこりしづみなんとす。 此時傳敎大師大吉祥天女に祈誓まし/\ければ感應むなしからず念にしたかひ光明赫として虛空に現しましませば風止波靜にして渡唐求法したまひき。 歸朝の後淸傳敎大師と相談まし/\淸みづから天女の像を作り傳敎大師開眼まし/\則此處に伽藍を建立し安置まし/\けり。此ゆへに吉祥院は淸、是善、菅亟相三代の氏寺なり云々』
『傳敎大師傳(委見干釋書第一卷)
大同三年戊子六月建立吉祥院
(二五)北野誌 天神の古事卷物 干中
『同吉祥院淸公遣唐使のとき、傳にて浪あれしとき、淸のため傳祈し申、天女あらはれ舟をすくふ。 歸朝の後、此兩人作天女其とき建立の地なり云々』
(註) は慶のか慶は敎に

吉祥院御建立以後菅家は吉祥院/\と崇し給ひければ終に淸卿の如きは菅原の姓の代りに吉祥院淸卿と卿方々より呼ばれ給へり。 されば當地里人は菅原院を吉祥院殿と稱し、吉祥院を本として方位方角を示すに至りしのみならず淸卿や是善卿を總て吉祥院樣/\と呼び菅原院と言ふ者漸時少なくなるに至る。

[1]「』」がありませんが、原文通り表記します。
[2]原文に○印の説明がありませんが、誤記説明の記載漏れと思われます。
[3]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[覆]で表記します。
[4]「于」(ハネあり)の誤記と思われますが、原文通り「干」(ハネなし)と表記します。
[5]「桑」の誤記と思われますが、原文通り「柔」と表記します。
[6]「无」の誤記と思われますが、原文通り「旡」と表記します。
[7]「註」の誤記と思われますが、原文通り「詩」と表記します。
[8]「)」がありませんが、原文通り表記します。
[9]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[壇]で表記します。
[10]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[咲]で表記します。
[11]「甍」の誤記と思われますが、原文通り「薨」と表記します。

更新日:2021/02/13