吉祥院天滿宮詳細錄 第三章 p38 - 49
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當菅原院御本邸にて御誕生後御名は阿呼アコ字は三と申せしも當地里人は阿呼丸とも菅三殿とも菅子殿とも申すことをはゞかりて御幼少時代を吉祥丸樣と申し上げ此の地に御成育ばされ御年十八歲迄で當地に住ひ給ひしが是善卿の命によりて同年より山陰亭に移り給へり。

の御夫人キタマンドコロも御終生當地に御住居ありしかば吉祥女と申すもうべなり。

かく移りかはるにつれ菅院や舊村名はいつともなしに稱する者無くなりに吉祥院の下に村を附して村名とせしものなり。

(註)◎吉祥院菅原院と菅御降誕につきての証明

(一)吉祥院村三善院緣起卷物(天承元年五月十八日書寫) 干中
『吉祥院は天神の故里なれば云々。』
『是善卿齒老まで御子おはしまさず氏胤なきを愁ひ天女に祈誓まし/\ければ仁明天皇承和十二年乙丑の頃[1]善卿の南庭に示現し給ひ相とし氏を母として侍養し給ひけるとかや 里人その示現まし/\ける處を字して七男畠と號しけり これなん是善卿の南庭の舊迹といひ傳へ侍りける云々』
(二)吉祥院村三善緣起の別卷物 干中
『私云當社天神緣起云昔是善卿居住此處承和十二年天神六七歲之姿而天降斯處其舊跡曰七男畠也』
(三)吉祥院天滿宮舊跡 干中
イ、七男畠 と云ふは境內の南部にありて古來より初宮詣の節必ず此處を拜し鼻を撮みて泣かせ以て發聲の初めとし行末の成功を祈るならはし今に存す。
ロ、衣塚 と云ふは當境內の東部にありて菅御降誕ありし際新に着換しめ給ひて前の着衣を埋められしなり 之れも七男畠を拜すると同意にて初宮詣の際子供の成功を祈るため持てる物を埋むる代りに小石を持ちて投ぐるならはし今に存す。
ハ、初宮詣の順序は第一天滿宮に參拜し第二に吉祥天女院に、第三に衣塜、第四に七男畠とす。
ニ、產湯の井 本社より凡一町東大石鳥居の東傍にありて菅御降誕後產湯に用ひられし井戶の跡なり、其の傍に菅御誕生の石碑を建つ。
(四)菅家廟歷[2]傳 干中
承和十二年乙丑夏六月二十五日從五位下文章博士菅原朝臣是善之宅南庭梅樹下忽有齡五六歲童子容止閑雅體貌奇偉也 是善問汝是何家子男何由來 童子答曰我無居處亦無願慾上レ親 是善知直也人而饗應許諾以爲子自母相從研精如實兒天才日新』
(五)菅家文集 干中
『參議諱是善文章典雅時儒宗住帝宮南[3]
(六)梅城錄 干中
同前
(七)大宰府天滿宮故實 干中
『相文章典雅にして時の儒家なり。 の家禁闕の南に有て菅原の院と稱す
(八)菅神年譜略 干中
『菅原院者參議是善卿之宅也』
(九)歷代編年集 干中
同前
(一〇)扶桑京華志 干中
吉祥院在東寺西南菅氏之宅地云々』
『菅神貶在之日顧視吉祥院之舊宅有森木末之詠有見森』
(一一)雍州府志 干中
『吉祥院淸置之於宅地今吉祥院是也 以下爲菅家傳領之地云々 菅神亦栖斯處
(一二)北野誌首卷 干中
『春雨は櫻花の艷を生じ秋霜は紅葉の錦をす、 この綾とも錦とも目かがやく菅原の御家にて生れいでたまひしぞ即ち上下千歲神ともとも仰き奉る我が北野の神菅原朝臣にはおはしましける、 時に承和十二年乙丑六月廿五日 御母君は大氏 處は菅原院とぞ申すなる』
(一三)天神記圖會 干中
『菅原院へ御降臨あり菅御幼名を三と申奉り是より後は菅原院にまし/\是善卿をと仰き儒の家業をつがせたまふ』
(一四)北野事跡 干中
『菅原院と申は、其かみ菅相生のとき、後家の南庭に五六歲ばかりなるうつくしきちごのあそびありき給ひけるを、相見給ふに、容顏體貌たゞ人にあらずおもひて申給ひけるやう、君はいづれの家の子男ぞ、なにによりてきたりあそび給ぞと問給に、 このちごのこたへ給ふやう、我はさだめたる居もなし、母もなし、相をおやとせんとおもひ侍なりとおほせられければ相よろこび給ひてかきいたゞきてまつりて寵愛し給、硏精せしめ給ければ、天才日新なり、 これを菅贈大相國とは申なりとぞ日記には侍なる云々』
(一五)天神記 干中
『抑昔菅相是善、菅原院ト申ス家ニ住ミ給ヒケルニ、家ノ庭ニ五六歲バカリナル兒ビ給ヒケルヲ、相見給ヒテ、容顏直人ニアラズト覺ヘテ、君ハ何レノ家ノ子男ゾ何ニヨリテ來リ給フヅト問ヒ給フニ兒曰我定レル居ナク又母ナシ相ヲ親トセント思ヒ侍ルト仰ラレケレバ相悅ヒキ取リテ御子ノゴトク鐘愛シ給ヒ儒業ヲ學バセ給フニ相ノ才智ニモテオハシケル云々』
(一六)北野緣起 聞書中資仲日記云
『相公平生其宅南庭有齡五六歲童子容止閑雅體貌奇偉也云々』
(一七)梅城錄中北野君小傳 干中
『初翰林學士參議菅原朝臣是善文章典雅爲時儒宗會春晨景淑寄倣南軒俄有髠髦兒花干庭肌膚玉年可五六歲云々 天才俊逸不恒童小名眞御殿彌勒論云、眞君甫七歲云々、眞君曰云々』
(一八)吉祥院廟御法樂歌 干中
『菅原やむかしの花の咲つきて 隨正
 うらゝかにしもふく家の風   能信』
(一九)畿歷覧記 干中
『淸の子是善子なし。 天女に祈り玉て天神を拾得たり云々 是善の宅地は此の森の(吉祥院の森)西南の隅にあり。 今は七難田と(七男畠のこと)云へる田地の字となれり。 七難の事不其謂云々 この七難田の宅に簾中田口氏を移さる云々』
(二〇)顯昭陳狀 後撰集 干中
『菅取や伏見の里のあれしより、し人の跡もたえにき。
此歌は菅原と申に付て安城の菅原の家を大和のくに伏見の里のあれしよりと讀うつせり』
(二一)天滿宮御傳記 干中 田篤胤著
『天滿宮の御幼名を。 阿呼とぞ申し奉りける。 御母は大氏より嫁入し給ひ。 五十四代仁明天皇の御世、承和十二年六月廿五日に天滿宮を生給ひけり。 古き或說に嘉祥年中のころ春のあした是善卿ひとり庭を見ておはせしに五六歲ばかりにて容貌凡ならぬ童子忽然に來りて立たり 是善卿おどろき奇み何處より來給へると問給へば吾は母もなくまた家もなし君をと賴み奉らむと答へ給ひしかば大きに悅びに御子とし養ひ給へるなりとも見えたるはれる傳へなり』
(二二)菅 松の卷 干中 依田學海校閱
(是善卿)の御年齡四十に及んで御子樣がない云々 奧方と共に御祈りに相成る丁度二十一日滿願のことでございます。 とろ/\とまどろみまする奧方の枕邊に麗しき御聲高く奧方を呼覺ます者がございます、 はつと眼を開いて御覽ばしますると御頭の上に紫雲棚引渡りまして御姿麗しき童子が梅の枝に下り立たせ給ひ御手に一つの明玉を捧げて入らせられまして奧方に向ひ「信心神にじたるに依り之れを授け取らすと御投げばすと奧方ははつと計りに有難きこと肝に銘して右の明玉を取らんといたしますと忽まち懷中に入ると思ふと夢が覺めました。 此申を早是善に申し上げるとも殊の他御喜びばされ、是れく心願成就の爲めならんとあつて御愼しみ深く信神を勵まれます、 其月から御身重と云ふことで人皇五十四代仁明天皇承和十二乙の丑正月十五日(六月二十五日)を以て初聲高く御誕生ばされましたのが是れ即にございます云々 菅御誕生の時產舍の上に白氣が立つて四方に靈香が薰じましたから是善大いに御喜びあつて阿呼君と名けられました云々 田口の次官龍乙(音)と云ふ者をんで御守役といたされましたがまことに虫氣もなくすら/\と御成長はさせられました。 御歲三つにならせ給ひましたから吉祥丸と申上げました、 云々 吉祥丸樣御年五つといふ頃ほひ龍乙(音)をれて日々禁裏の應天門へ參られ云々 紅梅殿(菅原院の)へ御歸りに相成りましてから筆を執つて應天門といふ三字を墨くろ/\と太筆に御認めはして机の上へてゝお置きなさいましたのを是善御覽なされて舌を卷て駭かれた御守役の龍乙音)に於きましても非常の喜びでございます云々 御齡七歲紅梅殿(菅原院)で是善御花見、吉祥丸も側に御居でなされます、 歌詠まれよとの君の仰せられしときに筆を執つてさら/\と無雜作に御認めなされましたのが

うつくしきべににも似たるうめの花
あこかかほにもぬりたくぞ思ふ

と御兩親始めとして竝居る者一同感服をいたす云々』

(註) 右文中紅梅殿とあるはりにて菅原院のことなり。何んとなれば紅梅殿は菅御誕生三十三才頃より山陰亭又は龍門亭のことを紅梅殿と世人が稱へしものにして菅十八歲までには紅梅殿は决して無きものなり。 此の事跡は後に記す。 天神記圖會第一卷干中 天穗日命より是善卿に至るまで廿八代なり、是善卿御子なきによりて天神を養ひ奉りて我御子として家業を傳へたまへり。 天神御年六才の御時より(御降誕の年)菅原院に養なはれたまひ十八才にして始めて紅梅殿の地に御別居あそばされ卅三才にして御殿を建ひろげ給へり云々 とあるを見ても明かなり。

(二三)庿宗神傳上 干中
『贈正一位太政大臣姓朝臣氏菅原諱某(諱有十號神孫者不知焉) 字三(疑是排行非字) 王從三位淸(古人之四男) 參議從三位是善 母大氏也、 承和十二乙丑六月二十五日生干菅原院或說菅原院南庭有五六歲童子云々』
[1]「是」が抜けているように思いますが、原文通り表記します。
[2]本書の他の個所では「曆」の字が使われています。誤記と思われますが、原文通り「歷」と表記します。
[3]返り点「一」の記載漏れと思われます。

更新日:2021/02/13