菅公當菅原院御本邸にて御誕生後御名は阿呼字は三と申せしも當地里人は阿呼丸とも菅三殿とも菅子殿とも申すことをはゞかりて御幼少時代を吉祥丸樣と申し上げ此の地に御成育遊ばされ御年十八歲迄で當地に住ひ給ひしが父是善卿の命によりて同年より山陰亭に移り給へり。
菅公の御夫人北の政所も御終生當地に御住居ありしかば吉祥女と申すもうべなり。
かく移りかはるにつれ菅公院や舊村名はいつともなしに稱する者無くなり遂に吉祥院の下に村を附して村名とせしものなり。
(註)◎吉祥院菅原院と菅公御降誕につきての証明
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(一)吉祥院村三善院緣起卷物(天承元年五月十八日書寫) 干中
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『吉祥院は天神の故里なれば云々。』
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『是善卿齒老まで御子おはしまさず氏胤なきを愁ひ天女に祈誓まし/\ければ仁明天皇承和十二年乙丑の頃[1]善卿の南庭に示現し給ひ相公を父とし伴氏を母として侍養し給ひけるとかや
里人その示現まし/\ける處を字して七男畠と號しけり
これなん是善卿の南庭の舊迹といひ傳へ侍りける云々』
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(二)吉祥院村三善緣起の別卷物 干中
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『私云當社天神緣起云昔是善卿居二住此處一承和十二年天神六七歲之姿而天二降斯處一其舊跡曰二七男畠一也』
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(三)吉祥院天滿宮舊跡 干中
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イ、七男畠 と云ふは境內の南部にありて古來より初宮詣の節必ず此處を拜し鼻を撮みて泣かせ以て發聲の初めとし行末の成功を祈るならはし今に存す。
ロ、胞衣塚 と云ふは當境內の東部にありて菅公御降誕ありし際新に着換しめ給ひて前の着衣を埋められし所なり
之れも七男畠を拜すると同意にて初宮詣の際子供の成功を祈るため持てる物を埋むる代りに小石を持ちて投ぐるならはし今に存す。
ハ、初宮詣の順序は第一天滿宮に參拜し第二に吉祥天女院に、第三に胞衣塜、第四に七男畠とす。
ニ、產湯の井 本社より凡一町東大石鳥居の東傍にありて菅公御降誕後產湯に用ひられし井戶の跡なり、其の傍に菅公御誕生の石碑を建つ。
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(四)菅家聖廟歷[2]傳 干中
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『承和十二年乙丑夏六月二十五日從五位下文章博士菅原朝臣是善之宅南庭梅樹下忽有二齡五六歲童子一容止閑雅體貌奇偉也
是善問汝是何家子男何由來遊
童子答曰我無二居處一亦無二父母一願慾下以二相公一爲上レ親
是善知レ匪二直也人一而饗應許諾以爲レ子自レ此父母相從研精如二實兒一天才日新』
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(五)菅家文集 干中
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『參議諱是善文章典雅爲二時儒宗一居二住帝宮南[3]』
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(六)梅城錄 干中
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同前
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(七)大宰府天滿宮故實 干中
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『相公文章典雅にして時の儒家なり。
相公の家禁闕の南に有て菅原の院と稱す』
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(八)菅神年譜略 干中
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『菅原院者參議是善卿之宅也』
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(九)歷代編年集 干中
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同前
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(一〇)扶桑京華志 干中
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『吉祥院在二東寺西南一菅氏之宅地云々』
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『菅神貶在之日顧視吉祥院之舊宅有森木末之詠有見返森』
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(一一)雍州府志 干中
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『吉祥院淸公安二置之於宅地一今吉祥院是也
淸公以下爲二菅家傳領之地一云々
菅神亦栖二斯處一』
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(一二)北野誌首卷 干中
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『春雨は櫻花の艷を生じ秋霜は紅葉の錦を呈す、
この綾とも錦とも目かがやく菅原の御家にて生れいでたまひしぞ即ち上下千歲神とも聖とも仰き奉る我が北野の神菅原朝臣道眞公にはおはしましける、
時に承和十二年乙丑六月廿五日
御母君は大伴氏
處は菅原院とぞ申すなる』
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(一三)天神記圖會 干中
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『菅原院へ御降臨あり菅公御幼名を三と申奉り是より後は菅原院にまし/\是善卿を父と仰き儒の家業をつがせたまふ』
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(一四)北野事跡 干中
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『菅原院と申は、其かみ菅相公平生のとき、後家の南庭に五六歲ばかりなるうつくしきちごのあそびありき給ひけるを、相公見給ふに、容顏體貌たゞ人にあらずおもひて申給ひけるやう、君はいづれの家の子男ぞ、なにによりてきたりあそび給ぞと問給に、
このちごのこたへ給ふやう、我はさだめたる居所もなし、父母もなし、相公をおやとせんとおもひ侍なりとおほせられければ相公よろこび給ひてかきいたゞきてまつりて寵愛し給、硏精せしめ給ければ、天才日新なり、
これを菅贈大相國とは申なりとぞ日記には侍なる云々』
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(一五)天神記全 干中
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『抑昔菅相公是善、菅原院ト申ス家ニ住ミ給ヒケルニ、家ノ庭ニ五六歲バカリナル兒遊ビ給ヒケルヲ、相公見給ヒテ、容顏直人ニアラズト覺ヘテ、君ハ何レノ家ノ子男ゾ何ニヨリテ來リ給フヅト問ヒ給フニ兒曰我定レル居所ナク又父母ナシ相公ヲ親トセント思ヒ侍ルト仰ラレケレバ相公悅ヒ抱キ取リテ御子ノゴトク鐘愛シ給ヒ儒業ヲ學バセ給フニ相公ノ才智ニモ過テオハシケル云々』
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(一六)北野緣起 聞書中資仲日記云
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『相公平生其宅南庭有二齡五六歲童子一容止閑雅體貌奇偉也云々』
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(一七)梅城錄中北野君小傳 干中
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『初翰林學士參議菅原朝臣是善公文章典雅爲二時儒宗一會春晨景淑寄二倣南軒一俄有二髠髦兒一弄二花干庭一肌膚雪玉年可二五六歲一云々
天才俊逸不レ類二恒童一小名眞御殿彌勒論云、眞君甫七歲云々、眞君曰云々』
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(一八)吉祥院聖廟御法樂連歌 干中
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『菅原やむかしの花の咲つきて 隨正
うらゝかにしもふく家の風 能信』
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(一九)近畿歷覧記 干中
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『淸友の子是善子なし。
天女に祈り玉て天神を拾得たり云々
是善公の宅地は此の森の(吉祥院の森)西南の隅にあり。
今は七難田と(七男畠のこと)云へる田地の字となれり。
七難の事不レ知二其謂一云々
この七難田の宅に簾中田口氏を移さる云々』
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(二〇)顯昭陳狀 後撰集 干中
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『菅取や伏見の里のあれしより、通し人の跡もたえにき。
此歌は菅原と申に付て平安城の菅原の家を大和のくに伏見の里のあれしよりと讀うつせり』
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(二一)天滿宮御傳記全 干中 平田篤胤著
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『天滿宮の御幼名を。
阿呼とぞ申し奉りける。
御母は大伴氏より嫁入し給ひ。
五十四代仁明天皇の御世、承和十二年六月廿五日に天滿宮を生給ひけり。
古き或說に嘉祥年中のころ春のあした是善卿ひとり庭を見ておはせしに五六歲ばかりにて容貌凡ならぬ童子忽然に來りて立たり
是善卿おどろき奇み何處より來給へると問給へば吾は父母もなくまた家もなし君を父と賴み奉らむと答へ給ひしかば大きに悅び遂に御子とし養ひ給へるなりとも見えたるは誤れる傳へなり』
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(二二)菅公 松の卷 干中 依田學海校閱
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『公(是善卿)の御年齡四十に及んで御子樣がない云々
奧方と共に御祈りに相成る丁度二十一日滿願のことでございます。
とろ/\とまどろみまする奧方の枕邊に麗しき御聲高く奧方を呼覺ます者がございます、
はつと眼を開いて御覽遊ばしますると御頭の上に紫雲棚引渡りまして御姿麗しき童子が梅の枝に下り立たせ給ひ御手に一つの明玉を捧げて入らせられまして奧方に向ひ「信心神に通じたるに依り之れを授け取らすと御投げ遊ばすと奧方ははつと計りに有難きこと肝に銘して右の明玉を取らんといたしますと忽まち懷中に入ると思ふと夢が覺めました。
此申を早速是善公に申し上げると公も殊の他御喜び遊ばされ、是れ全く心願成就の爲めならんとあつて御愼しみ深く信神を勵まれます、
其月から御身重と云ふことで人皇五十四代仁明天皇の承和十二乙の丑正月十五日(六月二十五日)を以て初聲高く御誕生遊ばされましたのが是れ即道眞公にございます云々
菅公御誕生の時產舍の上に白氣が立つて四方に靈香が薰じましたから是善公大いに御喜びあつて阿呼君と名けられました云々
田口の次官龍乙(達音)と云ふ者を選んで御守役といたされましたがまことに虫氣もなくすら/\と御成長遊はさせられました。
御歲三つにならせ給ひましたから吉祥丸と申上げました、
云々
吉祥丸樣御年五つといふ頃ほひ龍乙(達音)を連れて日々禁裏の應天門へ參られ云々
紅梅殿(菅原院の誤)へ御歸りに相成りましてから筆を執つて應天門といふ三字を墨くろ/\と太筆に御認め遊はして机の上へ捨てゝお置きなさいましたのを是善公御覽なされて舌を卷て駭かれた御守役の龍乙(達音)に於きましても非常の喜びでございます云々
御齡七歲紅梅殿(菅原院)で是善公御花見、吉祥丸も側に御居でなされます、
歌詠まれよとの父君の仰せられしときに筆を執つてさら/\と無雜作に御認めなされましたのが
うつくしきべににも似たるうめの花
あこかかほにもぬりたくぞ思ふ
と御兩親始めとして竝居る者一同感服をいたす云々』
(註) 右文中紅梅殿とあるは誤りにて菅原院のことなり。何んとなれば紅梅殿は菅公御誕生三十三才頃より山陰亭又は龍門亭のことを紅梅殿と世人が稱へしものにして菅公十八歲までには紅梅殿は决して無きものなり。
此の事跡は後に記す。
天神記圖會第一卷干中 天穗日命より是善卿に至るまで廿八代なり、是善卿御子なきによりて天神を養ひ奉りて我御子として家業を傳へたまへり。
天神御年六才の御時より(御降誕の年)菅原院に養なはれたまひ十八才にして始めて紅梅殿の地に御別居あそばされ卅三才にして御殿を建ひろげ給へり云々
とあるを見ても明かなり。
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(二三)聖庿宗神傳上 干中
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『贈正一位太政大臣姓朝臣氏菅原諱某(諱有二十號一非二神孫一者不レ能レ知焉)
字三(疑是排行非字)
王父從三位淸公(古人之四男)
父參議從三位是善
母大伴氏也、
承和十二乙丑六月二十五日生二干菅原院一或說菅原院南庭有二五六歲童子一云々』
[1] | 「是」が抜けているように思いますが、原文通り表記します。 |
[2] | 本書の他の個所では「曆」の字が使われています。誤記と思われますが、原文通り「歷」と表記します。 |
[3] | 返り点「一」の記載漏れと思われます。 |
更新日:2021/02/13