吉祥院天滿宮詳細錄 第三章 | p50 - 57 |
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附(一)吉祥天女院の別名
吉祥院、吉祥院堂、吉祥院尊堂、吉祥天女院、吉祥天女堂、吉祥院本堂 吉祥院御本堂、吉祥院天女堂、吉祥天女堂、吉祥天女、吉祥天、吉祥天堂、吉祥寺、吉祥天女社、吉祥天社、菅家御願所、菅家氏神、菅家代々の氏神、菅原院御尊堂、等と稱す。
附(二)吉祥院村の名稱につきて、
白井ノ庄、石原邑、石原鄕、菅原院邑、菅原鄕、石原、上石原、吉祥寺邑、吉祥院鄕、吉祥院村、吉祥院、等と稱す。
附(三)菅原古人卿以來當菅邸の遺名、
菅原殿、菅原御殿、菅原院、菅原御所、菅原邸、菅原御本邸、菅邸、菅原第、菅家御本邸、吉祥院御本邸、吉祥院邸、吉祥院第、吉祥院御殿、吉祥院、下屋敷、菅原院御所、菅原御所、天神御所、菅家御殿、菅家殿 菅家御所、天神御屋敷、天滿宮御屋敷、菅家屋敷、宮本屋敷、天滿宮境內屋敷、等時代に依りて名稱あり。
(註)◎烏丸菅原院につきて
(一)拾芥抄 干中
『菅原院 註云 勘解由小路南烏丸西一町菅贈太政大臣御所、或云 參議是善家也、當時號二歡喜光寺一
古本首書云
北野祭日神氏來二此所一取二枇杷一供レ神云々
紅梅殿五條坊門北町面 北野御子家或 天神御所、天神御所 高辻西洞院 東洞院面』
右文中『古本首書云 北野祭日神氏來二此所一取二枇杷一供レ神云々』とあるは當地のことならん、 昔當地より枇杷、柿橘等を年々北野神前に供へしと云ふ 古は北野社と當社との關係實に密接なるものにして社務職或は別當職等とは親族關係を有する者多く共に援助し親交盛なりしものなり。
(二)菅神年譜略 干中
『或人說曰、菅原院者云々』
『佐國謂 此之趣是非不レ測或人說也』
『林羅山 按世俗 有二北野天神緣起一皆如二或人所一レ說
蓋
出レ自二巫祝浮屠之口一者也
彼以二此人爲二累世儒宗一故怪二其所一レ生以誣レ之爲二神佛之依托一而巳』
(三)梅城錄 干中
『惟昔化兒菅氏家朱顏紺髮鳩車歲月如二淸雪レ花似レ星五字初詩早驚レ世云々
並云 菅原院南南庭有レ兒化現年纔五六歲許、又云承和四年生、又云貞觀八年年廿一二、徒欲レ二伸其事一有二自語相違之難一
如二扶桑略記一
書三神君年出二國史一
或御記必不レ誤矣
自二其任大臣年一郤二推之一則本命甲子也
今從二俗好一以二化生一段一係レ年則仁明天皇嘉祥元年戊辰恰五歲矣
彌勒論曰
一切欲界衆天無レ有二處女胎藏一者、四天王衆天於二父母肩上一
或懷中如二五歲小兒一
歘然化出、續博物志王元長云
小兒五歲曰二鳩車之戯一』
(四)世々樞覧 干中
『仁明天皇承和十一年甲子菅丞相出生 或二年出年』
(五)一代要記 干中
同前
(六)北野誌祭神御傳 干中
『今烏丸通下立賣下の町に菅原院といふあるはこと蹟なりといふ』
(七)天神記圖會 干中
『嘉祥三年庚午三月十日菅公御年六歲にて菅原院へ御降臨あり云々
菅原院と申は拾芥抄に勘解由小路南烏丸西一町とありて中古歡喜光寺といふ寺ありしよしを印す
考ふるに其後七條塩竈町にひかれ又寺町錦小路に移されしならんか彼所にて今に歡喜光寺といひて天神を祭れり菅原院跡は近世別に社を造立して云々
今烏丸菅原院に御降誕の地と立石に書印し又西洞院菅大臣にも御誕生の地と立石に書印せり、是皆その本をしらざる人の妄誤にして双方ともに御誕生の地とは思ふべからず云々
天神の御降誕は年紀月日ならびに御母公の御氏までもかくまでさだかなる事なれども御實父を誰と申あげ奉ることは憚りありて宮本の秘說とす』
右文中宮本とあるは當家のことにして天滿宮創祀をはじめ淸公卿及び是善卿を祀れるを以て宮の本は當菅原家なれば當地里人は宮本と稱し今に至るも家名となりて知らざる者なし。
余按ずるに右の如く今烏丸菅原院につきては或曰、又曰、又云、と云ふ、或人の說く所、蓋、並曰、俗說、佛說云々、ありし由、何々ならんか、等と何れの書にも確實ならざりしは自然のことにして、當菅原院の現はれざりし以所なり。
◎菅公と白太夫社(當社古記錄干中)
一日白髮の老翁此の邸に來りて曰く我は伊勢の國度會に住する度會の春彥と云ふものなり、一夜靈夢あり、大神宮枕邊に立ち給ひて 『吾れ都の坤の方に菅原と云ふ一朝臣あり之れに一童を授く此兒は後に國家の忠臣となるべき大切なる兒なれば汝宜しく行きて之れを受護養育すべし』 との神託あり夢覺めて打驚き馳せ參じたりと、時に道眞公感高く生後晝夜涕泣して止み給はず、父是善卿は夫人伴氏と共に之れを憂ひ種々心をくだき給ふ時なりければ老翁拜して抱き給ひけるに涕泣忽ち止み微笑を面に表はされしかば一同安偖して御養育申上たり、是より此老翁は常に則に侍りて終生能く公を守護し九州左遷の時も之に從ひ、菅公薨去の後彼の地に卒す。 現今も本社前に白太夫社として祭れり。
(一)雍州府志 干中
『白太夫社 禰宜從五位下渡遇春彥與二菅神一有二幽契之睦一故爲二第一攝社一春彥在レ任十六年承平三年十一月二十日辭職讓二男晨晴一天慶七年正月九日卒』
(二)扶桑京華志 干中
『白太夫神社 在二本社辰午中門內一及朝散大夫渡遇春彥也 菅三品友善故爲二菅神之攝社一』
(三)京羽二重卷一 干中
『白太夫社 是筑紫に菅亟相をもてなし奉りし海人を祠る也』
(四)長明四季物語 干中
『白太夫延勝とか物せしは、伊勢の神人たりしが、是をさへ同じ筋にたうとめり。
此御神の作文は唐土より乞求めて、延喜四とせ五月廿日餘り一月の頃、二卷となして唐土へ渡し給ふとなん。
後の世の唐歌にもほめ弄して渡せし事も有とこそ。
菅原のおとゞも、淸蓮花入レ夢 拜レ佛坐二金筵一と作り給ひしぞかし。』
(五)吉祥院聖庿御法樂 干中
『白太夫 ありがたき君の惠みは九つの 牛のひとつの毛にも及はす 香夢』
(六)都名所圖會拾遺 干中
『白太夫社 本殿の東傍にあり或は云ふ聖庿荒魂を祭るといふ一說には勢州神主春彥が靈なりとぞ』
更新日:2021/02/13