吉祥院天滿宮詳細錄 第五章 p109 - 117
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御年三十九歲元慶七年正月十一日加賀權守を同四月かりに治部大輔の事をつかさどり給ひ渤海國の使者を鴻臚館其他に於て無事饗應の役を終らる

(一)菅家廟曆傳 干中
元慶七年癸卯菅子三十九歲春正月十一日菅子兼加賀權守云々 夏四月勅渤海大使赴京師[1]鴻臚館時菅子爲文章博士 同二十一日菅子依朝議權爲治部大輔存問大使蕃客有文才故親與菅子答詩章 五月菅子製鴻臚贈答詩序

仁和二年正月十六日菅御年四十二歲にして讃岐守と成て彼國に趣かせ給ふ時外任を好ませ給はず殊に歎かせ給ひ二月の內はかしこにて御餞別の酒宴ありて御名殘を惜ませ給ひ三月すぎ當邸を出で讃岐の官舍につかせ給ふ。 其節別れを惜み歎かせ給ふ。 此時代は俗にいふ天王下にて諸國に大名小名と云へる者なく都より三年交代にて卿の守と成りて國々へ下りて其の國の政事を執り給しなり。

讃岐にては南條郡瀧宮の官府におはしましたるが治跡顯著にして民人のを慕ふことふかきに拘はらず、は常に都を戀ひたまふ止みたまふことなく或は鏡に向ひて白髮を歎かれ或は世路の險は海路よりも難しなどと打うめかれて憂愁の中に月日をらせ給ひしなり。

「予爲外吏幸侍內宴裝束之間者雖舊例又殊恩也 王次行酒詩臣相國以次又不盃矛前佇不行須臾吟曰明朝風景屬何人 一吟之後命矛高詠𫎇命欲、詠心神亂纔發一聲淚流嗚咽宴罷歸、家夜不、睡默然而止如、病胸塞尙書在亟在、傍詳聞故寄一篇以慰予惜」 (菅家文草 干中)

「自聞相國一開㫳 何似風光有主人 忠信從來將
文章不獨當仁 含誠欲報承恩久 發詠無堪落淚頻
若出皇城此事 定啼南海浪花春」
 菅家文草干中

「爲吏爲儒報國家 百身獨立一恩涯 欲東閣何爲
明春洛下春
 菅家文草干中

我將南海風煙 更妬他人[2] 倩憶憂非祖業[2]
徘徊孔廟門前

右の詩中に「徘徊孔廟門前」とあるは當吉祥院即菅原院御本邸の吉祥天女院の西にある淸卿の建られし文章院のことにして孔子を祀れるを以て孔堂とも孔廟とも孔廟とも云ふ されば此の文章院孔堂の前のことなり。

御在任中當吉祥院御本邸は御留守中なれば家を思ひ親を慕ひ八月十五夜思舊有感て詩を詠じ給へり。

菅家故事世人知 翫月今爲月期 茗葉香湯免
華妙法換吟詩 如何露溢思親處 况復潮寒望闕時
始南來長欎悒 就中此夜不
(一)右の詩菅家文草 干中
(二)菅家廟曆傳 干中
仁和二年丙午菅子四十二歲春正月十五日內宴菅子賦官妓奏柳花怨曲製後朝十六日菅子任讃岐刺史[3]京城裝束之間預[4]日諸卿太夫成餞序 又贈以言菅子亦製酬答之 爾後發足驛路海頭々有紀行  夏四月七日菅子讃岐境視州府云々』

四月の頃ほひ讃岐の國を隈なく御見あそばされけるに國府の北に一つの池[5]あり、多く生ひたり。 處の村老申上けるは此池のは昔より葉ばかりにて花は一つも生じはべらざりしに如何なる故にてや候やらん昨年より花多く生じはべるなり、といへり。 菅聞しして花咲かば吿來るべしと仰せ置かる。 其後前きの村老來りて花昨年よりも殊に多く咲き候と申す。 菅行きて見給へるに滿池皆花にして紅白打交り其香ひ風に飜へりて香んばしきこと例へんかたなし。 菅思惟し給ひ府吏を召して花百千萬本をらせて國內廿八箇寺へち、別に香油料を與へて佛前に捧け、法會を執行し國內安五穀成就を祈らしめ給ふに、國民おしなべて隨喜合掌せすといふことなし。 此法會は當年を初めとして永世斷絕あるべからざる由を仰せ置かる。

讃岐に臨み給ひてより、農事をすゝめ、租稅をはぶき、老人をいたはり孤兒を憐み、內には神佛を恭敬しては冥加を知らしめ、外には忠孝を以て現在の敎へを立て給へるに、 風雨順時にして五穀成就し、領內靜謐にして盜賊なく府事閑暇にして訴訟稀なり、 菅唯海邊の風月を眺めて心をやり、詩を作り歌をよみて明し暮し給へるに國民其德になつきて慕ひ奉ること母の如くなりしとぞ。

仁和三年八月二十五日光孝天皇崩御ありて宇多天皇御位に即き給ふ。 菅讃岐に在して此事を聞かせ給ひ御心中思さるゝことの有けるにや同九月上旬俄かに暇を乞ひて御上京せさせ給う。 國民再び下り給はざらんことを疑ひ國內こぞりて停め奉らんとす。 菅此由を聞かせ給ひて御旅舘の庭に御手づから栽させたまへる小松を指さして「當州若不重來久客舘何因種小松」と云ひ聞かせ給ひけるにぞ國民少し安堵してし奉りしとぞ。 事おへて正月の末つかたより再び讃岐へ御歸任ばされしが、御上京御歸邸中當吉祥院御本宅甲園殘菊下自詠詩給へり。

疎籬豈敢冐霜威 不恨凋殘氣力微 天下凉陰花下冷
主人外吏故人稀 應晩色閑物 欲引餘香襲客衣
爲恐藂邊膓易斷 徘徊未早南歸

仁和四年正月の末またもや當吉祥院御本邸を留守宅として再び讃岐に御下向ありしが中明石の驛にて御旅舘の壁に筆を取つて一詩を書きつけ給へり。

家四日自傷春 梅柳何因觸處新 爲問去來行容報
讃州刺史本詩人

今年春より夏に及びて日照打續きて雨降らず、河水も池水も共にかれ果てゝ國民田に種付けすべき時を失なはんとす。 菅忝くも罪を我身に攻め給ひ。 是く政事を執の宜しからざるか。 又吾れ神を崇敬することの足らざるかとて齋戒沐浴し手足の爪を切つて、五月六日阿野郡城山の神社に詣でて、帛を捧げ、雨乞せさせ給へる祭文に云く、

仁和四年。歲次戊申五月。癸巳朔。六日戊、戍。守正五位下菅原朝臣某以酒果香之奠。 敬祭[1]城山神。 四月以降渉旬少雨吏民之困苗種不田某忽解三龜試親五馬憂在任結憤惟悲。 嗟虖命之數奇。 逢此愆序政不良也 感無徹乎。 伏惟境內多山茲山獨峻城中數社、茲社尤靈。 是用吉日良辰昭吿、誠之至矣、神其察之若八十九卿二十万口、一卿無損一口無愁敢不蘋藻淸明。 玉重疊以賽應驗威稜若甘澍不饒旱雲如結神之靈無見人望從斯乃俾二レ神無一レ光俾二レ人有一レ愁人神共失。 禮祭或疎神其裁之勿冥祐尙饗

祭文を讀終り再拜し給へば忽ち社壇鳴動し一村の黑雲城山の嶺上にぶと見えしが須臾に一天立ふさがり雷鳴と共に降雨一時しきりなり。 河流溢れ池水滿ち一國の田地うるほはざるなし。 此時喜びの聲街衢に滿ち蒼生豊年を相賀して菅の德に服せずと云ふことなし。 堵又一昨年より恒例と定め給ひし供の法會も今年のひでりにて池水乾き根枯れて花も葉も生せず法會も一兩年にて廢絕するは誠に殘念に思召し、薄命篇といふ詩を作らせ給ひけるに此度の雨に池水滿ちてさしも枯果つる根一時に葉を生じ花も去年に劣らず開きたれば法會斷絕せざりしとぞ。

生愛し給へるは梅のみにあらず、菊の花を御賞翫あそばされ當御庭上或は紅梅殿の御上には叡山の僧明より菊苗を乞ひて種ゑ給ひて御樂みとし給へり。 御作に「少年愛老逾加、舘堂前數畝斜」等ありて菊の御作尤も多し 天神を祭り奉るに、春は梅秋は菊をば供すべし 江洲膳の天滿宮神官は御神慮を慰めんとて梅菊を多く植ゆ盆梅の如きは日本一と賞讃せられ皇室へも度々奉献ありと。

[1]「于」(ハネあり)の誤記と思われますが、原文通り「干」(ハネなし)と表記します。
[2]返り点「一」の記載漏れと思われますが、原文通り表記します。
[3]返り点「レ」の誤記のように思われますが、原文通り「二」と表記します。
[4]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[]で表記します。
[5]香川県高松市国分寺町国分にある「関の池」の前身がこの蓮池と伝わるそうです。

更新日:2021/02/13