寬平二年菅公四十六歲の春讃岐國より召返され給ふ。
國民菅公を慕ひて此時より菅公の生靈を家々に祭り始めとし今に彼の國にて七月廿五日瀧の宮の踊りとて天神の祭あり是其餘風なりと申傳ふ。
讃岐より留守宅なりし當吉祥院御本邸に歸らせ給ひて後一年ばかりは年頃の御疲れもあり、且つさして定まれる御役付もあらず、引きこもり勝にておはしませり。
然れども其の問に兼ねて勅命を𫎇り給ひし、國史の部類の御編纂に御盡力ありしものなり。
寬平三年二月昇殿を許され給ふ是より御立身旭日の昇るが如し。
同四年五月には前記の類聚國史二百卷を奉られ同五年二月十六日參議に進み同日式部大輔に叙せられ父是善卿と御同官まで進み給ふ。
同六年菅公御年五十歲となり給ひし八月遣唐大使となられしが無益のみならず損失多く國威にも害[1]あることを奏上して入唐を廢せらる。(天神記圖會干中)
寬平六年九月二十五日門徒の人々當御本邸なる吉祥院に集まり菅公五十歲の御年の賀を修せしめける時法會の面に翁のわら履はばきしたるの願文に沙金を取添てやう/\步壽堂の前の案上に置て云事もなく急ぎ去りぬ。
あやしとおもひて開たりければ
傳聞菅家門客共賀二知命之年一弟子雖下削二跡人間一無中名世上上
尙數記二淳敎之風一多改二春昧之過一
古人有レ言無二德不一レ報無二言不一レ酬一深感二彼義一欲レ罷不レ能故福田之地捨二此沙金一
金以表二中誠之不一レ輕沙以祈二上壽之無一レ涯莫レ疑二其人一可レ求二其志一
遠居二北闕之以北一遙增二南向之和尙一
とこそ書かれたりけれ
少增[2]都勝延導師にて讃歎しき忝も天子の修し給ひけるにや希代の勝事とぞ富樓那の辨舌を演じたまひける(當社緣起干中)
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(一)吉祥院三善院緣起卷物 干中
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『堂の前と名る處は昔例年法花會を執行ひける法花講堂邊りなり。
寬平六年九月菅亟相の門徒吉祥院にて五十の賀を修し給ふ時草鞋の翁に冷と願文とをさゝげ堂の前に立けるを導師勝延僧都捧て讀給ひ「此是天子之所爲願」といひし處なり
舊跡を字して堂の前となづけ田宅となり傳りき』
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(二)北野緣起之類本 干中(北野事跡中)
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『寬平六年なが月のころ門徒の人々たかきもいやしきも吉祥院にあつまりて五十賀の御年のよろこびの會をしめけるとき法會の庭を見やればわらくつにはばきしたる翁來りて願文に沙金を添て云々』
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(三)天神記圖會 干中
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寬平六年九月城南吉祥院にして菅公五十の賀を行はせたまふ。
御一門の人々は申に及ばず御門弟其余の貴賤群集せり法會の半に藁ぐつはばきしたる翁來りて願文に沙金一袋を添て堂前の机の上におき何ごともいはずに急ぎ去ぬ。
人々あやしみて其願文をひらき見れば 傳聞菅家門家[3]共賀二知命之年一云々 とぞかゝれたる
辱[4]なくも帝の贈りたまへるなりしとぞ』
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(四)聖廟曆傳 干中
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『九月重陽云々二十五日菅子門徒於二吉祥院一修二五十賀一此時草鞋翁捧二沙金及願文一云々』
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(五)宇多紀略 干中
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『是月菅家之門徒於二吉祥院一修二參義道眞卿五十賀一
有二一男一草鞋纏携二一卷一來二庭砌一置二案上一不レ吿而去
衆怪而見レ之乃願文也
中包二砂金一
蓋天皇設二爲脫屣者之言一而所レ托也
其詞曰、傳聞菅家門客共賀二知命之年一云々』
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(六)本朝神社考 干中
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『寬平五年二月進爲二參議一六年九月門徒於二吉祥院一修二五十賀一
([5]時草鞋者捧二沙金及願文一其詞曰傳聞菅家門客共賀二知命之年一云々
導師勝延僧都曰此是天子之所爲歟云々』
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(七)北野誌、天神記上 干中
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『寬平六年長月の比、門徒の人々貴も賤も吉祥院に集りて五十の御年の賀を會修せしめける時、法會の庭の面に翁の藁鞋脚絆したるが願文に砂金を取添て漸々步寄りて堂前の案上に置て云事もなく急ぎ走りぬ
奇と思ひて披きたりければ
傳聞菅家門客共賀二知命之年一云々(畧)』
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(八)菅神和光傳 干中
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『寬平七年五十歲八月二十日勅定二遣唐使一彼國依二干戈之動亂一止、九月於二吉祥院一修二五十賀一十二月十五日兼二侍從一大辨長官大輔如レ元』
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九[6]菅神年譜略 干中
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『六年甲寅公五十歲秋八月勅レ公爲二遣唐大使一以二右少辨紀長谷雄一爲二副使一藤忠房爲二判官一
九月公上下請レ令三請公卿議二定遣唐使進止一狀上
是月諸門徒於二吉祥院一修二公五十賀一有二一男子一草鞋行纏携二一卷一來二庭砌一置二案上一不レ吿而去表怪而是レ之乃願文也
中包二沙金一
蓋天皇設下爲脫屣者之言上而所レ託也
其詞曰傳聞菅家門客共賀二知命之年一弟子云々』
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(十)北野緣起上卷抄 干中
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『門徒の人々。
御弟子衆なり菅公儒家ゆへ其御門衆也 たかきも賤もとは人品の貴賤に非ず官位の淺深なり。
吉祥院。
東寺の南なり祖父淸公卿建立の地御祈所也(御氏寺)
そこにて菅公の五十賀有也
寬平七年九月の事也(私御簾中此所に住給ゆへ吉祥女と申にや)
堂前の案上 吉祥院の本堂の前の机也
案上は机類なり
五十賀に法會不審の由云人あれども僧都勝延導師にて仁王大般若など有し故法會と云に不審なし。
傳聞菅家門客共賀二知命年一 知命論語五十知二天命一
弟子雖下削レ跡人間無中各世上上而數記二淳敎之風一多改二惷昧過一
弟子とは嫌退の辞なり我人間たりといへども我名世上にも知るゝ事なしとなり數記淳敎風とは菅家の淳敎とあつきおしへの風に習て我惷昧のをろかにくらきあやまちを改となり。
古人有レ言無レ德不レ報無言不レ酬
詩經に見たり然るを讐の字諸本酬の字に作誤れり
但讐酬義同然らば書來れるまゝ酬の字を可レ用也
詩蕩之什抑篇曰、無二易由一レ言兂二曰苟一矣莫レ捫二朕舌一言不レ可レ逝矣無二言不一レ讐無二德不レ報一
深感二彼義一欲レ罷不レ能 彼義は菅家の淳敎なり
福田之地捨二此砂金一 寺を福田と云事は福を栽置田と云心也
金以表二中誠之不一レ輕 金を只今捧る心は金は七寳の隨一にして人々の重くするもの故私の中誠のかろからざるを表するため金を送ると也
砂以祈二上壽之無三[7]涯 濱の眞砂はよみつくすともなど云て不盡事にいへり千歲を上壽と云。
莫レ疑二其人一可レ求二其志一 唯今願文砂金を捧る人を唯と疑事なくとも只其志を求めよと也
遠居二北闕之以北一遙贈二南山和南一 北闕は大裏也
以北の以の字に心なし以東以南と云に同じ禁中の北に住居しての心也
南山は吉祥院を云禁中より尤南の方也、
和南は致敬の梵語也
歸命と云に同じ然れば導師勝延に送りて敬白と云心也
道[8]師 是菩薩衆中に有四の導師云々佛法に導引師匠と云心なるべし
天子 白虎通曰王者父レ天母レ地亦曰天子は天の子也。
少僧都勝延 職原抄曰僧都(准四位)殿上人)此人系圖所レ見なし私古今中の作者勝延(うつせみはからを見つゝも慰みつ此作者也)
富樓那 說法第一也父天道に祈りて求たる子也云々』
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(十一)北野緣起 聞書 干中 六段
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『寬平六年 此段六ヶ敷也
一義云天子御賀也云々
然ども天神御賀也
爰にて天神御歲しるゝ也
承和十二年乙丑生給て今寬平六年まで五十歲也云々
門徒 菅家御門弟也
會修 賀の會也
法會とは賀には寺々にて仁王經大般若經なんどを讀誦して祈念するぞ、
翁のわらくつ 草鞋也
或說此翁天上より下ると一向さにあらず天子なさることとぞ
傳聞 文にてはつねに耹と讀むしかれども緣起などにはつたへ耹と讀べし聞說の意也
門客は門徒人々也
弟子とは翁が吾身を指して云ぞ翁昇下して曰名無二世上一然今菅家隨一[9]德風一改二惷昧之過一となり惷昧はぐちにくらき人ぞ
然に古人語に如レ是人の恩德を受れば又報ずる者と云也
されば今古人の語に依て罷んとすれどもやめられぬ故此寺に捧二沙金一
福田 寺の異名也
寺は善を修處也
故於二當來一受レ祥或爲二十善之身一或作二福貴之人一故所レ種レ福田地也
故云寺曰二福田一
金云々 金は萬物の中にて尤重寳なれば己が意の表レ不レ輕
上壽 千年曰二上壽一言は壽の長きことぞ砂は數多して不レ盡者也
故比二上壽一莫疑云々
此翁を何人ぞと茣レ疑只是まで來る可レ感レ志と也
さて次句にて我居處を顯す禁中の北に居者と也
北闕は禁中を云、以、北は只北と云ばかりの意也
以字に心なし以東以南と云も以に意なし、
南山云々 吉祥寺は禁中南にあり故南山と云和南とは梵語也
致敬也、
不[10]不レ謂二致敬一而曰二和南一對句故に梵語を其儘に用也、
少僧都 勝圓僧都其日の導指[11]也
寺[12]祥寺住僧これが導師にて讃嘆せらるゝ也
忝もより評判の語也
此願文の希代あることは天子の修し給ゆへにや
但し富樓那の天下でなせる辨舌にやと二のにやの字に心を付べしと云々
富樓那 佛の十代[13]弟子の內以二辨舌一鳴レ世人也
春宮にて 此時分は延喜帝無二即位一時也、
寬平七年十一月[14]即位號二醍醐天皇一延喜元年よりは延喜御門とも申す。』
[1] | 原文は[害]の異体字[ ]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[害]で表記します。 |
[2] | 「僧」の誤記と思われますが、原文通り「增」と表記します。 |
[3] | 「客」の誤記かもしれません。 |
[4] | 「辱」では意味が理解できません。「宸」の誤記かもしれません。 |
[5] | 何の誤記が不明ですが、原文通り表記します。 |
[6] | 「(九)」の括弧が抜けていますが、原文通り「九」だけ表記します。 |
[7] | 返り点「一レ」の誤記のように思われますが、原文通り「三」と表記します。 |
[8] | 「導」の誤記と思われますが、原文通り「道」と表記します。 |
[9] | 返り点(縦書き左寄り)「一」の誤記のように思われますが、原文(縦書き右寄り)通り「一」と表記します。 |
[10] | 「不」が1つ余分に感じますが、原文通り表記します。 |
[11] | 「師」の誤記と思われますが、原文通り「指」と表記します。 |
[12] | 「吉」の誤記のように思われますが、原文通り「寺」と表記します。 |
[13] | 「十大」の誤記と思われますが、原文通り「十代」と表記します。 |
[14] | 醍醐天皇の即位は寛平9年(897)7月13日とされており、本文記載とずれがあります。 |
更新日:2021/02/13