吉祥院天滿宮詳細錄 第五章 p134 - 140
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五十五歲となり給ひし昌泰二年二月十四日原時は左大臣にませ給ひ同日菅を右大臣にませ給ひ。[1]しが同月廿七日上表して右大臣を御辭退遊ばさる 其表に云

眞言、 伏奉今月十四日詔旨臣任右大臣仰戴天慈、 不中謝 臣地非貴種、家是儒林、偏因太上皇往年拔擢之恩、 自至卿今日昇之次寢無次思以慮人心巳不縱容鬼瞰必加睚眦伏願陛下高廻鑒早罷臣官非唯不一レ志於匹夫亦復得望於衆庶、 不懇欵屛營之至上表聞 臣眞誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪謹言
昌泰二年二月廿七日 正三位守右大臣右衞大將臣菅原朝臣、

廿八日中使在中左中將在原友干を以て此上表をさしされ勅許なきの旨を傳ふ、 三月四日再び上表して右太臣を御辭退あり其表に云

眞言 去月二十八日中使從四位上修理大夫行在衛中將備前權守在原朝臣友干至奉宣恩旨[2]臣上表天無覆爲臣何約其周日無臨爲臣何韜其照 中謝 臣初擧秀才後爲博士止俄忝崇班曩者孫弘高第韋賢大儒至其居專統而屬 則年巳耆與學逾明也 以年言之臣少於弘二十年以學論之臣不及賢千萬里况復當時言居臣下者將相貴種宗淸流皆是臣書卷[3]之日 位望先貴冠盖自高臣若不獲巳可朝列爐炭以待燒亡治水而期陷沒遠尋漢代周行上畏蒼昊 下耻黔庶步不步何以授手於紀綱心不[4]心自然慙顏於輨轄而巳伏惟陛下寵命臣官改授其人賢得一レ路不戰越兢惕之至謹再奉表陳乞以聞 臣眞誠惶誡恐頓首頓首死罪死罪謹言

此度も即日上衰[5]をさしへされて御許しなし。 同月廿八日三度目の辭表を奉り給ふ其表に云

眞言 今月四日中使從五位上守左衞夕[6]將源惕臣緖嗣奉傳天旨臣戴恩惟重海鼈之首難感未休皐鶴之聲欲中謝 臣地望荒鹿舊以箕裘之天資淺簿之末光圖太上天皇拔於南海前吏主陛下不於東官舊臣毛之疵榮華以鋒起銷骨之毀隨祿以荐臻嗟虖摳衣不遑 星霜僅移一十屋無限 封戶忽滿二千臣自知人孰恕彼盈溢顚覆於流電 傾頽應於踰機而巳伏望睿[7]覧降臨宸哀曲鑒臣官臣福臣寵以保臣身 寵渥官崇皆是不翅之飛也 身安福景豈非涯之〓[8]乎不懼之至重以拜伏陳言 臣眞誠恐頓首頓首死罪謹言

矢張勅許ならず菅此上は力なく災難のあらんことをしろしめしながら御勤めばさる。

同年十月廿四日宇多上皇は御落ありて御室仁和寺に移らせ給ふ。 これを法皇と申奉る 同日女御衍子も御薙髮なれり。

御年五十六歲となり給ひし昌泰三年正月三日法皇朱雀院にまします醍醐天皇も同じく朝覲の行幸ありて年始の壽きを申させ給ふ、 御儀式すみて後傍の人をはらはれて、天皇と法皇と御額を合せて御密話ありけり。 左右大臣立ならび政務を取ること氣合宜しからず、 人口穩かならざるの由聞ゆ何れなりとも一方に打任せばやとて何れが然るべきと詔へば法皇は左大臣は貞操才學右大臣に及ばずと雖も代々執權の家なり、右大臣は執權の家に非と雖も文武備の忠良の臣なり 右大臣に打ち任せばやと御相談一决して菅を召されて天下の政務汝一人に委任せらるべき由仰せ渡されけるに菅畏りて申上給ふ。 臣はもと儒臣なり 君が拔擢の恩によりて數多の次第を打超位衆人の上にみ、右大臣として政務に預るさへも人の許さずして日夜橫災のあらんことを恐る、 况や氏は代々執柄の家なり 左大臣固より我上にあり臣もし左大臣を打越て政務を專らにせば尤龍の悔あらん ゆめ/\あるまじきなりとて堅く御辭退ありければ兩皇にも御に聞しめされ强ひても仰られず。 菅重ねて秦[9]し給ひけるは唯今召れしことは左大臣始め諸卿に理り無くば臣忽ち疑ひを𫎇りぬべし、 されば「春生柳眼中」といふ詩題を戴きて披露仕らんと奏しけるに兩皇も御嘉あり 菅もとの座にかへり唯今めされたるは此の詩題にて當席詩を作るべしとの勅定なりと披露ありければ左大臣始め諸卿も疑を晴らし詩を作りしに其日天皇と法皇ならびに皇后より菅へ御衣を賜はりて殊更なる御寵榮なりければ左大臣また疑ひを生じたまひしとぞ。

二月六日上表して右衞大將を御辭退あそばさる其狀に云

右臣眞出身儒舘職武官三四年來、 罪深責重伏頥主陛下、 曲降鴻慈臣大將悃切之至皇以聞 臣眞誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪謹言

七日從五位上菅根朝臣を御使として勅許なきの旨を傳ふ。

同年八月菅家三代の詩集を天覽に備へ奉れとの勅命に依りて三十二卷を淸書して奉り給ふ。 祖集十卷、是善集十卷、我集十二卷なり。 帝天覽まし/\て御感の餘り詩を作りて賜はりけるその御製

門風自古是儒林 今日文化皆盡金 唯詠[10]一聯氣味
三代淸昑 琢寒玉聲々麗 裁製餘霞句々侵
更有菅家[11]白樣 從茲抛却匣鹿深

同年九月十日淸凉殿に於て九日の後宴ありけるに菅詩を作りて奉り給ふ。

亟相度年幾樂思 今霄觸物自然悲 聲寒絡緯風吹處
葉落梧桐雨打時 君富春秋臣漸老 恩無涯岸報
知此意何安慰 飮酒聽琴又詠

帝叡感斜ならず御衣をぬぎてぞ賜はりける(去年今夜の思出深き御詩作の御衣はこれなり)

同十月十日重て上表して右衛大將を御辭退遊ばされけれど此度も勅許せさせ給はずして上表をさしへさる其表

右臣眞去二月六日陳寫懇誠大將 明日天使從五位上行式部少輔文章博士備中權介原朝臣菅根至傳以敕旨愚欵 臣畏王命由以從之自夏涉秋心胸如結 臣伏惟去寬年[12]九年夏季當 陛下之欲一レ禪入太上天皇臣之備坊官儒學枉忝爪牙當時有謗之聲喧聒雖慮非常之寄戰兢不辭方今在位卿帥者五六許軰衆庶推伏願

陛下特賜優裕罷武官俾俾永含箝弓馬之談俾臣三レ專供奉花月之席罪丹悃之至修狀以聞 臣眞誠惶誠恐頓首死罪死罪謹言

[1]「。」は余分だと思いますが、原文通り表記します。
[2]返り点(縦書き左寄り)「一」の位置ズレと思いますが、原文(縦書き右寄り)通り「一」と表記します。
[3]たぶん返り点「一」は余分だと思いますが、原文通り表記します。
[4]〓の漢字は[扌]の右上に[甘]その下に[岡]です。
[5]「表」の誤記と思われますが、原文通り「衰」と表記します。
[6]「少」の誤記と思われますが、原文通り「夕」と表記します。
[7]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[睿]で表記します。
[8]〓の漢字は[雨]の下に[浦]のように見えます。
[9]「奏」の誤植と思いますが、原文通り「秦」と表記します。
[10]返り点「二」の誤植だと思いますが、原文通り「一」と表記します。
[11]返り点「一」の誤植だと思いますが、原文通り「二」と表記します。
[12]「平」の誤植と思いますが、原文通り「年」と表記します。

更新日:2021/02/13