吉祥院天滿宮詳細錄 第五章 | p140 - 147 |
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此月ほゝき星出て十星の柄にあたる。
此の時天文博士三善淸行といへる人より「明年辛酉革命に當り恐らくは其たゝり君が上にあらんか」とて御諫申す書を菅公の許へ送らるその文に云ふ。
淸行(善相公)頓首謹言交淺語深者妄也
居レ今語レ來者誕也
妄誕之責誠所二甘心一伏冀尊閣特降二寬容一某昔遊學之次偸習二術數一天道革命之運
君臣尅賊之期緯候之家創二論於前一開元之經詳二說於下一推二其年紀一猶如レ指レ掌斯乃尊閣所レ照愚儒何言但離朱之明不レ能レ視二睫上之塵一
仲尼之智不レ能レ知二篋中之物一聊以二菅穴一伏添二槖䈁一伏見明年辛酉運當二變革一二月建卯將レ動二干戈一遭レ凶衝レ禍雖レ未レ知二誰是一(○是誰イ)引レ弩射レ市亦當中二薄命一天數幽微縱難二推察一人間云爲誠足二知亮一伏惟尊閣挺自二翰林一超昇二槐位一朝之寵榮道之光花吉備公外無二復與一レ美伏冀知二其止足一察二其榮分一擅二風情於煙霞一藏二山智於丘壑一後生仰視不二亦美一乎
努力努力忽レ忽二鄙言一某頓首謹言
昌泰三年十月十一日 文章博士 三善朝臣淸行
謹謹上 菅右相府 殿下政所
文章博士三善淸行卿は常に菅公につきて、學問を學び文章博士にまで取りたてられ給ひければ度々當吉祥院菅原院御本邸に御訪問あり、又吉祥天女ならびに菅公御年三十七歲の時宿願まし/\て、自から作り給へる十一面觀世音薩捶を信じ常に此地に詣でさせ給へり。
菅公薨し給ひて六年の後即延喜九年三善淸行卿は子の淨藏貴所と共に商量し福田の地に七寳を喜捨し吉祥天女院堂の前法花講堂の邊りに一宇を建立し以て前記の十一面觀音の尊容を安置し奉り淸行山三善院淨藏寺と名づけ給へり。
是れ吉[1]院三善院の起源なり。
淸行卿は當時東寺の西に住居ありしと、淨藏貴所の御墓は西寺金堂跡の北一町餘八條通南へ入る所に石碑を建てゝ存す。
菅公は善相公の諫言を受けられしかど度々の御辭表勅許なく宿因ののがれ難きことをしろしめしたる權者の御心今に始まりたる事にも非ざれば
心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や神らん
とてさして御頓着もあらざりしとぞ
爰に左大臣時平公は兩皇の菅公を特に御寵遇厚く稍もすれば我身を打越て關白にも登り給ふべき有樣なりければ、憤ること限りなく如何にもして菅公を傾むけ奉り天下の政事己れ一人にて掌握せばやと思召源光卿、定國[2]卿、菅根卿其餘の人々數多語らひ申し合せて、勅定と僞り陰陽寮の官召寄せ王城の八方に山野を卜しつゝ雜寳を埋めて菅公呪はせ、子孫斷絕すべきのまじなひをぞせられける。
昌泰四年正月七日菅公從二位に進ませ給ふ。
かく御昇進ありしより時平公等一層憤ること限りなし。
加ふるに正月元日は年の初めよと[5]日蝕ありて癈務せられ同月十五日と十六日とは月蝕打續きは[6]ゝき星出て今年辛酉革命に當りて正月の初めより日月明を失ふこと君臣剋賊の期なり天變の偶然ならざることを思ふべし
是菅公を退くる好期とし加ふるに本朝王化四海に溢れて萬民太平を樂み御代の龜鑑とならせ給へる延喜の帝にましませども未だ御幼年なる御事を見すかし奉り讒臣あたま打寄りて聰明叡智を覆ひ兩皇の御中を滯絕して姦斗を廻し太上天皇の御皇弟齊世親王の妃が道眞公の女なりしを幸とし道眞は兩皇の御引立にも滿足せず表には忠と見せ內心には陛下を癈して齊世親王を御位に即け奉り天下の政事を巳[7]れ一人が掌握せんとの野心を持ちたる不忠の者なりと誠の狀に讒奏す
天皇も驚かれて諸臣に尋ねられしも共に示し合せたる一團の者なれば同じく誠しやかに申し上ければ天皇も遂に時平公の言葉に欺かれ給ひて昌泰四年正月二十五日俄に宣旨下りて右大臣左近衞大將を召上げられ太寄權師[8]に遷れ給ふ其時仰せ渡されける宣命に曰く
天皇加詔旨良萬止宣大命乎親王、諸王、諸臣、百官等天下公民聞食止宣朕即位之初、左大臣藤原朝臣等、奉二前太上天皇之詔一天相共輔導之天朝政乎取持奉止天今五箇年爾成奴
而右大臣菅原朝臣、寒內與利俄爾大臣上收給利
而不レ知二止足之分一有二專レ權之心一以二侫謟之情一欺二惑前上皇之御意一
然乎恐二愼上皇之御情一天困奉レ行旡三敢恕二[9]御情天欲下行二廢立一離二間父子之涉志一破中兄弟之愛詞上
辭者順者之天心者逆、是皆天下之レ[10]所知奈利
不レ宣レ居二大臣之位一須法律乃任爾罪奈倍給不倍幾乎殊有レ所レ念奈牟
停二大臣之官一、太宰權師[11]爾罷給不又右大臣爾者大納言源光卿乎任給不
是則爲レ安二宗廟社稷一以二大糓一奉レ修茲衆聞食
昌泰四年正月廿五日
當時紅梅殿に住ひ給へる菅公の御子息にて御任官ありし方々も同日配流せられたまふ、御嫡男右少辨高視卿は士[12]佐國に、二男式部大丞景行卿は越後國に、三男藏人兼茂卿は遠江國に、四男秀才淳茂卿は播磨國に流され給ふ。
其外此度の讒奏の序に他姓にて流されたまへる人々には源善朝臣、大春日晴蔭、藤原諸朋[13]、源巖、源敏相、山口高利、和藥貞世、良岑貞成、源兼則など諸國へ配流せられにけり。
即日菅公仁和寺に行かせ給ひて、法皇に宣旨の由を吿げて淚に咽びて一首の和歌を奉り給ふ。
流れゆく我は水屑と成ぬとも
君栅となりて止めよ
法皇おもひかけず打驚かれ給ひてやがて御車にも召されず十善の御足に土を踏みて內裹[14]へ急がれ淸凉殿の近き所に至り我參りたる由申入れよと仰せられけれども諸陣の警衛きびしくして菅根をはじめ申次ぐ者なかりければ御對面も叶はず夕方むなしく還行まし/\けり。
菅公は歸途紅梅殿に立ち寄り御子達とかなしき物別れを吿げ吉祥院に歸り給ふ。
二月朔日藤原眞興及衞士に追立られ男女の御子達二十三人の中成人し給へるは殘し置き御幼少なるは皆うち連れて行かせ給ふ、北の方政所の御なげは申すに及ばず上なるも下なるも今日を限りと泣きかなしむこと限りなし、菅公庭上の梅の樹を御覧じで
東風吹かばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ
と詠じ給ひ又櫻樹に向ひて
櫻花ぬしを忘れぬものならば
吹こん風に言傳はせよ
と詠み給ふ。
此梅後に御配所筑紫迄で飛びゆきけるこそ不思議なれ。
(一)吉祥院天滿宮寳物 干中
○飛梅の枯木一片 此飛梅後枯れしを以てその一片をわざ/\由緖深き當家へ寄贈ありしを以て當社の寳物の一として今に存す。
[1] | 「祥」が抜けていると思われますが、原文通り表記します。 |
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[2] | 原文はくにがまえ「囗」の下の線が消えていて、けいがまえ「冂」のように見えます。 |
[3] | 「下」と見えるのですが、「レ」の誤植か「上」の抜けか、私には判断がつきません。 |
[4] | 「二」の誤記と思われます。 |
[5] | 「り」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。 |
[6] | 「ほ」の誤記と思われます。 |
[7] | 「己」の誤記と思われます。 |
[8] | 「太宰權帥」または「大宰權帥」の誤記と思われます。 |
[9] | 対応する「一」が見当たりません。 |
[10] | 「之所レ知」の誤記と思われます。 |
[11] | 「帥」の誤記と思われます。 |
[12] | 「土」の誤記と思われます。 |
[13] | 原文は[朋]の異体字[![]() |
[14] | 「裏」の誤記ですが、原文通り「裹」と表記します。よく似ていますが別の意味の漢字です。 |
更新日:2021/02/20