吉祥院天滿宮詳細錄 第五章 | p159 - 164 |
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昌泰四年は辛酉に當り且つ老人星の現はれければ改元ありて延喜元年と號す
齋世親王は無實の讒奏にあひ給ひて後は帝の御疑ひをはばからせ給ひて同年十月二日仁和寺に於て御得度遊ばされ眞寂とぞ申しける。
北の方(菅公の御女も)飭をおろさせ給ふ。
翌延喜二年秋の末つ方ともなりぬれば、さらでだに物かなしきに、此秋ひとり我身の秋となる等と口ずさみ、御なげきのあまり御身もやう/\疲衰へ御病ともなりぬべき狀なるに、又召かへさるゝ事もあらず生ける此世にて罪あきらむることの難きを思召けるにや、罪無きよしの祭文を書かせ給ひ其邊りの高山の頂に攀上りて文挾もろ手にさしあげ足の指を爪だてつゝ七日七夜立たせ給ひて其由天道に訴へ給ひけるにK雲一むら天より下りて祭文を卷き上げけるこそ恐しけれ、後に此山を天拜山とぞ申しける。
其後御病日々に重らせ給ひ延喜三年二月二十五日御年五十九歲にして遂に
病追二衰老一至 愁趂レ[1]謫居一來 此賊逃無レ處 觀音念一回
の詩を詠じて愁雲中に薨じ給ふ。
御生前御英明六十餘州に轟きければ聞人皆悲淚をぞ流しける、さて筑前四堂のほとりに御墓所を點じておさめんとするに御車途中に止りて牛引かんとすれども盤石の如くにして動かざりければ其處を堀りて納め奉りぬ、これ即今の大宰府安樂寺なり。
其後延喜五年八月十九日味酒安行菅公の御神託を受て初めて形斗の社壇を建立し天滿大自在天神と號し奉れり。
此の御神號は天拜[2]山にて天帝より下し給へるものにして安行に御神託のありしなり。
(一)吉祥院天滿宮舊跡 干中
1鑑の井 菅公朝庭に御參勤の節御姿を寫し御手を洗ひ御口をすゝぎ給ひし井戶にして本社より一町餘東鳥居の南辨才天社の前に存す
四時淸水涌出せしが近年耕地整理及天神川改修以來冬期は前の如くならず
碑文に
毖〓[3]鑑井徹、底而淸菅神、照影千歲留、名弗枯弗溢、四時常汲、尊永、嘆厥德 維明[4]
2六田の杜 「音きゝの杜」ともいふ。
菅公秋の夕愛牛に召して虫の音を聞き給ひし舊跡にして本社より東三町の地點に存す、六田の杜の名稱は前記の福田、奧田、安田、恩田、寺田、岩田の六家が相議り一つの杜を築き秋の鳴虫を集めて此杜に放ち菅公の詩歌の料に供せしかば此名稱の出でたるものなり、又老松一本あれば俗に「一本松」とも稱へ又黑竹生ぜしより里人は「黑竹山」とも云へり。
3東の馬場、西の馬塲幷池の馬場 古人卿、淸公卿、是善卿、菅公及御子達等の朝務御寸暇の節御乘馬の練習を爲し給ひし所にして西、東、池の馬塲通じて三町餘ありて存す。
池の馬場とは此の東に大なる池ありて中央に島あり此れに辨財天女を祀りし神殿ありしを昔日本社東入口第一の大鳥居の傍に移し奉りて今にまつる、其の池に添ひしを以ての名稱なり。
4老樹と森 本社境內をはじめ附近には凡一千年若くは五六百年を經たる老樹も現今多くありて遠望すれば一大森林をなす、これを吉祥院天神の森とも菅公見返の杜とも稱す。
此老樹を見ても昔を偲ばしむる材料たりしかれども年々枯木となりて减少しゆくは遺感[13]なり、
[1] | 返り点「二」の誤記のように思われますが、原文通り「レ」と表記します。 |
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[2] | 原文では「拜」の文字が180度回転しています。 |
[3] | 〓は「丷」の下に「丁」を組み合わせた文字です。 |
[4] | 『京都のいしぶみデータベース』鑑井銘❐は碑文の説明が異なっています。 石原之井 徹底而清 菅神写影 千歳留名 涌出弗渇 四時盈盈 鑑焉永嘆 厥徳維明 |
[5] | 前述の碑文と空白区切りの位置が異なりますが、原文通り表記します。 |
[6] | 「し」の脱字のように思われますが、原文通り表記します。 |
[7] | 「烏」の誤記ですが、原文通り表記します。 |
[8] | 「菅公」の誤記のように思われますが、原文通り「菅相公」と表記します。 |
[9] | 「天」の脱字と思われますが、原文通り表記します。 |
[10] | 返り点「一」が抜けているように思われます。 |
[11] | 原文は[郞]の異体字[![]() |
[12] | 返り点「一」が抜けているように思われます。 |
[13] | 「憾」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
更新日:2021/02/13