第七章 吉祥院天滿宮創祀
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(一)吉祥院天滿宮緣起 干中
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『朱雀天皇承平四年の比金峰山の日藏上人と申人あり
善相公の子息淨藏公の弟なり、
いとたうとき僧なりき
四月十六日より笙の岩屋にこもりて行法しける程に八月朔日午刻に頓死して十三日にぞよみかへり給けり
其程金剛藏王の善功方便にて天滿大自在天のおはします所を見たてまつり又天神の御誓願をうけたまはる
若人我形を作り我名を唱て尊重せば其人を擁護せんとの御誓願也、
よみかへりて後此よしを帝に奏し申さる。
當社天滿宮は吉祥院の御靈と申して其の頃よりはじまれり。』
日藏上人よみかへりて直ちに內裏にまいりて此のよしを朱雀天皇にこまかく奏達せられける。
天皇早速菅公の御幼少の尊像を御宸刻ありて菅公に由緖深き此の地に菅神の靈として奉祀し給ひて天滿大自在天神と尊稱し年々勅祭を給ひ行ひき、
されば此社は勅命を以て菅公を祭り給ひたる最初のものにして由緖正しき御社なり。
時は承平四年なり。
是より吉祥院聖廟又吉祥院本廟、又吉祥院御靈或は吉祥院とのみ尊稱して鳥羽天皇天仁二年より每年二月二十五日の御忌日には勅命を以て御八講を修し給ひしものなり。
其の他當社の御神號として、吉祥院の宮、吉祥院天神、吉祥院天神堂、吉祥院天神御靈、吉祥院宮、吉祥寺社、吉祥院天神社、吉祥院威德天神、吉祥院天滿大自在天神、吉祥院社、吉祥院祭、吉祥院威德天滿大自在天神、吉祥院御聖廟、吉祥院天滿宮、等と申し奉る。
當社御神靈の御在世幷薨去以後の御尊名は阿呼、三、吉祥丸、菅三、菅子、菅原道眞、神君、菅少將、眞君、眞御殿、右公、菅相、右相公、右府公、右公[1]、菅贈相國、右僕射、菅亟相、菅右相府、右府、菅公、菅原朝臣、菅家、菅靈、菅神、天神、天神御靈、天滿天神、北野靈、北野、威德天神、天滿大自在天神、天滿宮、北野御靈、吉祥院、吉祥院御靈、吉祥院聖廟、等と申し奉る。
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(二)吉祥院村三善院緣起卷物 天承元年五月十八日書
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『厥後淸行公の御子日藏上人大政威德天の淨土に到又延喜帝の地獄に御座りけるを見奉本土に歸りし頃より吉祥院の御靈とて天滿宮を天女の地に勸請ありければ其より後は十一面觀音の像(菅公御自刻)を天神の本と仰せ給ひけり。
天神勸請承平四年』
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(三)同別卷物 干中
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『吉祥院は淸公、是善菅亟相三代の氏寺なり
されば此地に天滿宮を勸請する事は菅公の世にまし/\ける時の故鄕なればなり。』
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(四)雍州府志 干中
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『吉祥院菅社薨後建レ社祭レ之』
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(五)吉祥院天滿宮古記錄 干中
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『日藏上人は前記の如く笙の岩屋の事どもを奏上せられけるに朱雀天皇早速菅公御幼少の尊像を御宸刻ありて由緖深き當地に祠り給ひしと同時に日藏上人も亦自ら菅公の尊像を刻みて共に菅靈として本社に納め祀れる御社なり』
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(六)日藏上人は三善淸行卿の子息淨藏貴所の弟なれば共に東寺の西邊りに住居し常に吉祥天女院に詣でられ且つ三善院淨藏寺は前記の如く父兄の創建なればこれへも度々詣でられ笙の岩屋のことどももあれば吉神[2]院天滿宮創祀上大なる深き關係あることも證するに足る
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(七)大日本地名辭書 干中
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『吉祥院は菅原氏の氏寺にして菅原淸公創建
後世道眞の靈廟を此に立てたるより天神御靈又は聖庿と稱す』
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(八)北野宮寺緣起取要 干中
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『承平四年四月十六日日藏上人參二籠干笙窟一七日之間入滅奉レ拜二見當社之御威德幷御在所一』
[1] | 「右公」が2回登場していますが、原文通りです。 |
[2] | 明らかに「祥」の誤記ですが、原文通り「神」と表記します。 |
更新日:2021/02/13