吉祥院天滿宮詳細錄 第七章 p204 - 208
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(一一)北野文叢紀文部北野事跡 干中
『其頃日藏人と申人侍き、 本名は賢なり、 金剛藏王大菩薩のおしへにて、あらためて日藏とは申なり、 かの人四年四月十六日より金峯山の笙のいやはにこもり居ておこなひ給ほどに八月一日午の時ばかり頓滅して十三日にぞよみがへりける。 その程ゆめにもあらず、うつゝにもあらずして、ならびに都卒內外院閻魔王宮地獄なんとも見めぐりけり。 地獄と極樂と依正二報苦樂のありさま、正敎にのべたるにつゆもたがふ事なし、 天滿天神とは太政威德天と申て御かたちなんどは申さむもおそれあり、 侍從眷屬の異類雜形かぞへつくすべからず、 或は金剛力士のごとし、 あるひは雷神鬼王夜叉羅刹のごとし、 御住を見れば、大きなるいけのほとりもなくして四大海のごとくなり。 池の中に大きなる島あり、 花鳥樹林の莊嚴阿彌陀經にとかれし極樂世界にことならず、 島の中には八肘ばかりなる方壇あり、 壇のなかに花あり、 花の上に寳塔を安ぜり。 塔のうちに妙法華經の金字玉軸なるあり。 また東西の兩部の曼陀羅をかけたり。 北方一里ばかりをさりのきて一の大城あり、 莊嚴美麗にして光明照耀す、 これこそ大政威德天の御住よ、 この島は心をつくし思をたもつところなりとぞおほせられし、 天神その時、日藏上人にしめし給ける事こそ、おそろしくはおぼゆれ、 我はじめはおもひき、 生前にながれしところの儀をたゝへて、日本國をひたしほろぼして大海となして八十四年を經てのちに、はじめて國土を成立して、我住かとせんと思しに、普賢龍猛等の佛敎をひろむる國なれば敎法を愛するの心かろからず、 顯密敎の力にて、むかしの怨念十の一はやすまりぬ、 其上に住[1]古の如來、法身の大士たち、悲願力の故に名を神名にかりて國土にみち給へり、 おのおの智力をつくしてわれをすかしなごめ給へば巨害をばいたさゞるなり、 たゞしわが眷屬十六萬八千の惡神等ところにしたがひて損害をなすをば、我なをとゞめがたきことなり。 この事をうけ給りて、うやまひかしこまりて申やう、 日本國のうちにて火雷天神と稱し奉て、貴賤上下したてまつること十號世のごとし、 なむぞ怨心おはしますべきと申給しに、太政威德天仰られけるは、國においてわがため大怨敵なり何日かこのうらみをわするべき、 たゞし人信心ありてわが形像をつくり我が名號をとなへてねんごろにいのることあらば我感應をたれんことひゞきのこゑにしたがふごとくならんとこそちかはせ給ひけれ日藏このよしを藏王大菩薩に申給ければ、菩薩おほせられけるやう、われなんぢをして世間の災難の根源をしらしめんがために、太政威德天の御住へは、つかはしつるなりと仰せられける。

日藏人は忽然としてよみがへりければ內裹[2]にまいりて延善[3]の帝のおことづてども御ありさまなんとこまかに奏せられけるとなん。 凡太政威德天の十六萬八千の水火雨電[4]、風伯、兩師、龍、邪神等國土に滿して火災の害をなすに、諸天善神もちからおよばずとこそ、金剛藏王もおほせられけれ、 あるひは山をくづし地をふるひ、火をいだし城をそんじ疾病も亂も、 この師眷屬の爲なりとぞ見えたる延喜十四年五月二日京中六百十七烟の燒亡も、 同十七年十二月一日東大寺の十一間の講堂、三面の僧、一百廿四間燒けるも、 同廿一年崇福寺の炎上、 延長三年の法隆寺の火災も、 五年に延曆寺の中堂四十餘堂燒けるも、 純友將門が兵亂も、 天神の使者の爲とぞしめし給ける、 さきをさとりてのちを思に、 貞任宗任が合戰も、 保元以後のその[5]どうも、 源二家のあらそひ、 安元三年治承元年かとよ、 四月廿八日に樋口富小路よりいできたりし失火の大極殿、眞言院、朱雀門、應天門會昌門までうつりて、八省の廻廓もやけにしも、 家のために興福寺のほろぼされ、東大寺の三尺五寸の金銅の廬舍那佛一時のとなり給しも、 長承養和饉、 文治元年の大地震、 同五年の大風、 建保の洪水までも、 國土の災孽は天神の御眷屬はなれ給はじと、心ある人は申侍る、 まことにおそろしくぞ覺ゆる』
(一二)扶桑略記賢上人冥記 干中
『金峰菩薩令佛子見地獄時。 復[6]鐵窟一茅屋其中屋四箇人其形如灰爐一人有衣僅覆背上三人裸祖蹲居赤灰獄領曰有衣一人。 上人本國延喜帝王。[7]也 餘裸三人、其臣也。 君臣共受苦。 王見佛子。 相招云。 我是日本金剛覺大王之子也。 而今受此鐵窟之苦。 彼太政天神以怨心滅佛法害衆生。 其作惡報惣來。 我爲怨心之根元故今受此苦也。 太政天者菅臣是也。 此臣宿世福力。 故成大威德之天。 我法王令險路步行心神困苦其罪一也。 予居高殿聖父下地焦心落淚。 其罪二也[8] 賢臣旡[9]流其罪三也。 久國位怨害法其罪四也。 令自怨敵害他衆其罪五也。 是五爲本餘罪枝葉無量也。 受苦無休。 苦哉。 悲哉汝如我辭主上。 我身辛苦早可救濟云々、 又攝政大臣可我㧞苦起一萬率都[10][11]上』
[1]「往」の誤記と思われますが、原文通り表記します。「往」の異体字として「住」が使われているのかもしれません。
[2]」の誤記ですが、原文通り「」と表記します。よく似ていますが別の意味の漢字です。
[3]「喜」の誤記ですが、原文通り表記します。
[4]「雷」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。
[5]「う」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。
[6]返り点「」は不要だと思いますが、原文通り表記します。
[7]「。」の位置が違うようですが、原文通り表記します。
[8]「。」の記載漏れだと思いますが、原文通り表記します。
[9]「无」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。
[10]「率都婆」の誤記と思われます。
[11]「已」の誤記と思われます。

更新日:2021/02/13