吉祥院天滿宮詳細錄 第十章 p308 - 316
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○都名圖會拾卷一 (天明七年序) 干中
『天滿宮菜種御供(西京靱負町に御供あり安樂寺と號す)
每年二月廿五日鳥羽院御宇天仁二年より始りて北野宮の御忌を執行はせ給ふ。 其日の夜に入つて御供田を預り奉る家より大小の神供をかず/\調へ御供り本殿に捧げ奉る。 宮司の面々は相向ひ並立ちて神前の階下に至つて御轉供す宮司の一老二老神前に出て一老は左轉の供物を捧げ二老は右轉の供物を捧げておの/\神前に供ふ大御供ば飯をウヅタカく盛りて其上に黃菜花ナノハナを挿す故に菜種御供と稱す、 年によりて菜花いまだ咲かざる時は則ち梅をサシハサむなり又每歲六月九日都下の人々まづ本社に詣て南の門の外に出て又本社に詣ず斯の如くする事九度なりこれを九度參といふ此日はむかし北野に初めて座し給ふ日なりとぞ七月六日は內陣にめある神寳を殿に出してこれを蟲干す此日も諸人群參しける云々』

だんご祭

春の私祭にて古よりだんご祭と稱し、よもぎだんごを作り各親族友人幷恩人等へ配與し一家もこれをす又來客にも持たせて歸らしむる例にして餘り華美ならさる私祭なり、 此例の起源は詳ならざれども予案ずるに古は六田家及菅家の家臣が每年春季よもぎだんごをつくり菅家に献上し又各親族等へも配りしものなるが菅靈を此地に祀られしより二月二十五日は菅神の御忌日に當れば氏子の者は何れの人にも是非參拜を乞ひしを以て一家親族知友の者は先天滿宮に參拜して立寄りしに對し御忌日の事とて酒肴を出すは神靈に畏ければよもぎだんごにお茶といふ質素なる饗應が今日に及びしものならんか。 二 月[1]は未だ寒さの爲めよもぎの發育不充にて多くは得難きより太陽曆となりしより一月延して三月廿五日と定めしなり。

一、四月二十五日 月次祭 私祭
私祭はもと十月十三日なりしが大正八年より變更す。  其理由は第一、惡病流行時期をさけること第二、神事として何の催もなければ田園の花期をぶこと、第三、諸物價高きこと、第四、年二度も私祭のある處なしさればだんご祭を廢し一度にすること、第五、種々の催し事をなして盛大に神事を行ふこと。
右の條件にて櫻井社中の生花奉及山下三郞氏の盡力により田中和市氏を依賴して繁山社中の能狂言の奉幷岡尾磯次郞氏の社中より仕舞等の奉ありてなか/\盛なりしが經費上一年のみにて中絕す。

一、同月中旬松尾御面講供奉頭屋より御出祭七日前御調製を依賴し來る、されば靑竹七本に紙を附し御面榊に附す紙も調製してこれをす、但し紙は頭屋より持參のこと、
附 御面御神體は當社に預り置き年中兩天末社へ奉る神供と同樣に奉祀す、

一、五月二十五日 月次祭同前、凡氏子中より百三十餘軒の神饌献備 二十六、七、八日の三日間を以て各戶に神饌配下す、

一、六月二十五日、月次祭同前 氏子中より凡三十數軒の神饌献備 日各戶に神饌配下す。

一、七月二十五日、月次祭同前 氏子中より凡三十數軒の神饌献備 日各戶に神饌配下。

一、八月十五、日[2]兩天末社部へ白蒸强飯を葉にみて献備す。

一、同月地藏會 廿日頃より廿一、二、三日の三四日間地藏廻りの人々夜をじて當境內を通過す政町、北條町より案內旁々路に献燈を立つ又政町よりは每年麥茶及竹杖のせつたいあり北條町にては三善院地藏前にて氷のせつたいあり、又野里町中塜四郞兵衛氏はいり豆のせつたいは永年なり。

一、同月廿五日、月次祭同前 凡四十軒氏子中より神饌献備 六齋太皷奉(雨天順延)百燈献備
○百燈献備は氏子總代、世話方中より種子油壹升献あるを以て奉燈す、

◎六齋太鼓につきて

六齋太皷は六齋念佛を起原として空也念佛の變化なりといふ。 空也上人醍醐天皇の第二皇子にあたり、延喜三年に生まれ七才にて出家し天祿三年九月七十才にて寂す。

此の上人紫野雲林院に住ひせられ十月の頃大宮を南へ念佛唱へつゝ逍給ひけるに中に白髮の老の實に寒愁の氣色せる人にあはれしに之れ松尾明神なりき。 明神の御願に依りて上人は着たる衣を奉れば明神の御嬉び一方ならざりき。 其の後上人松尾へ參社有りけるに明神出現まし/\て御對面ありければ上人は又々衣を奉り給へば御悅の餘り御前の鰐口と太皷を上人にあたへ末世の衆生利益のため此の太皷をたゝきて念佛をすゝめ給へ如何なる願も守護し申さんと宣ひて內陣に入せ給ふ。 上人はそれより御定旨のり行ひたれば俗に呼びて六齋念佛と云ひ傳へたり。 これより年々松尾神社に奉せるが起原ならんと。 今より凡九百年前一條天皇の御宇每年七月天滿宮勅祭を行はれ獅子舞を奉し給ふ例となれるが、其の有樣は多くの若者橫笛、太皷、すりがね等を合せ數名揃ひの姿に身をやつし藝をなしてねり步き又行列に加はり神前庭上に列し獅子舞を奉るものなり、されば此の頃より六齋念佛太皷は盛んとなりしはじまりならんか、

祭典及法會の催されし際には必ずこれを修めしものなり。 然る前記の如當村民等が相集り吉祥院講を組織して傳授せられ東條町より西條町、北條町、石原上の町、石原下の町、南條町と四方に擴がり本村内には七組もあり。 かゝるありさまなれば何れの組にても獅子舞、獅子太皷の加へざるもの無くこれに舞、賴光蜘蛛退治、さらし、猿まわし、さつきよ、わとうない、成寺、手踊等を加へ他に比類なき古風なり。 時には東京名古屋大阪方面へも特に依賴に應ぜしことあり。

大正十年十月の如きは久邇宮殿下[3]陽宮殿下の御臺覧に供せしが異の外御感興あらせられ給ふ。 かゝりければ六齋太皷といへば吉祥院村を指し吉祥院と言へば天神樣か六齋太皷と言ふ如く名高し。 外國人とても日本音樂の一とし、日本藝の一として貴重せられ寫眞や蓄音機に收め彼の地に於て珍重されつゝあり、是れ本村の名物否我が國の古風藝の一たり。

此の講は各部洛[4]每に靑年會即十三四才以上三十五才以下の男子を以て組織せるものにして第一吉祥院天滿幷吉祥天女院に、奉するを目的とし。 第二靑年の自治修養旁娛樂の機關とし。 第三に一家親族知友の親交を温め村民の男女老若の樂とし、 第四に他の神社佛閣に奉することゝし農事稍々𨻶ある夏季の行事たり。 决して營利的のものにあらず。 凡三百年以前には北野神社へも奉せしが中絕せりと云ふ。

今より四十年以前は實に盛なるものにて八月十三日の夜はお生靈の供養とて各部洛每に各家を廻り同十五、六日の兩日は早天より長持に長柄擔夫が靑竹杖をてんでにかざし赤八卷と勇ましき姿にて京都市に出で望の家や例年の得意先へ廻り打に出で十七日には淸水寺、十九日より各の地藏に奉し、同二十五日(雨天順延)の如きは本村部の六齋太皷のみならず上久世下久世下津林牛が瀨上鳥羽上の町同下の町下鳥羽中堂寺等よりも當吉祥院天滿宮幷吉祥天女院に奉ありて夜の明くるも知らず、參拜者も群集して立錐の地無きに至る。

孝明天皇御四十九院御燒香勤行の節奉仕せる故により菊御紋章入の太皷四個を空也堂極樂院を經て御下賜ありその狀に、

『免狀の事
菊御紋付箔押太皷  金紋二ツ
銀紋二ツ
右者今般 孝明天皇御四十九院御燒香勤行の節相用候に付永世什物に備置法要の節大切に取用可申の旨令免許候事
本山空也堂 極樂院
慶應三卯年二月十七日
 洛西吉祥院村六齋念佛講中』

英照皇太后儀御燒香式供奉申付の節同前その狀に

『紀伊郡吉祥院村字南條
菊花押  六齋念佛講
今般 英照皇太后儀御燒香式供奉申付候ニ付金銀菊花御紋章太皷四個差許候事

明治三十年二月廿六日
本山空也堂 極樂院

西條町及東條町の演奏目錄を記せば

○西條町
今海、晒布、芦田川、三戀慕、祇園囃子、猿廻し、四ッ太皷、靑物盡し、新作、獅子太皷、(以上曲) 獅子(吾妻獅子と蜘蛛)、猿廻(お俊傳兵衞の猿廻し)

○東條町
石橋、三戀慕、祇園囃子、四ッ太皷、芦田ヶ原、八島、猿廻、玉川、獅子太皷、勢獅子、土蜘蛛、橋辨慶、

[1]「 二月」の誤記でしょうが、原文通り表記します。
[2]「十五日、」の誤記でしょうが、原文通り表記します。
[3]「賀」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[4]「落」の誤記なのか、昔は「洛」の字も使ったのか、浅学のため不明です。

更新日:2021/02/13