吉祥院天滿宮詳細錄 第十章 | p331 - 339 |
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一、十一月二十三日 新甞祭
皇室におかせられても此日を以て新甞祭を行はせらるゝ佳き日なれば之れにならひて定めしものなり。
一、十一月廿五日
月次祭 神饌献供同前
一、十二月八日
稻荷神社お火たき祭(初午祭にほゞ等し)
一、同二十五日
月次祭先月と同 御饌米集御神札配與
一、同二十八日
御鏡餅搗
一、同二十九日
兩天末社御しめ飾
一、同三十一日
兩天末社裝飾 神饌献備の準備、夕刻大拔祭
一、十二月中に氏子即吉祥院村全戶へ御神札を配與することに定む、其の方法は役場を經て村長平塜繁次郞氏、氏子總代世話方町役方々の盡力に依る。
1 山城名跡巡行志 干中
『吉祥院天滿宮 牛の宮 在二同所竹林南一今棟の枯木あり由來不レ貞』
2 近畿歷覽記 干中
『吉祥院二千石悉く神領たり云々 菅原氏自二天神一六代目定義に子三人あり嫡子は菅原二男唐橋、三男石原、此の二十四代の末河內の今の社務なり東の馬塲、昔は正月七日禁裏の女中交[2]參詣車二兩行通ほどの街ときこゆ今は社頭零落雨漏地濕不レ堪二感歎[3]此の森の東の田間に牛巡と云大なる樹あり、 每年五月五日吉祥院村飼フレ牛ヲ人粧ヒ二菖蒲ヲ於牛ノ額ニ一是を菖蒲角と云。 其の牛を牽き此の樹を巡こと三匝、 然して後各々携へ來る角黍食フレ之ヲ如クレ此するときは年中牛に無レ病と云へり是より四塜みゆ云々』
◎ 萬燈會につきて
菅公薨去以後五十年目若くば[4]二十五年目の御忌日每には社頭に於て菅家や氏子の者は更なり親戚及崇敬者遠近より群參して各御燈明を献り御神靈を慰め奉りしものにして一萬燈と限りしものにあらず許多の献燈にて數ふるにいとまなき迄で多數なれば萬燈と稱へしものなり、
此の御忌年の當り年若くは前後の年又は御忌日二月二十五日の前後には三日以上百日に渡り献燈することも少なからずさればこれに關する會合も多ければ此會名を萬燈會と稱ふるに至りしものなり、
かの御開帳も萬燈會の一なり、
就ては平素の小修繕は時に應じて行ひ來るも二十五年や、五十年といふ久しき間には大修繕を要すべき箇所生ず、
されば之れを好期とし氏子の人々擧つて一年二年若しくは數年前よりこれが準備に怠りなく御神殿、吉祥天女堂末社及神苑參道の大修繕を行ふものにして一生一代に度々相遇することを得ざる大祭なれば各自の業務をも勞苦も打ち忘れひたすら氏神樣への御奉公とて有らん限りの勞力奉仕をなす古例なり、
然れども勞力のみにて適はざる經費も少しとせず。
しかりと雖も天正十八年以前には社領の地も多々あれば何の不足も無く盛大に行はれしかど豊臣秀吉公の勘氣にふれ當社領土及御朱印幷御八講等全部取り上げ北野社の方へ移せしより北野社は一層隆盛を極むるに反し當社は晴天一時に暗闇と變り全く手の付けやうも無く衰頽し慶長七年の第七百年祭は先無事執行せしが寬永三年[5]の七百二十五年祭の節には力及ばず規模を縮め元和以前の盛時を夢に見て形ばかりの御祭典を修せしなり。
然れども手を束ねて傍觀するに忍びず村民打ち寄り萬燈會講とか、何百年忌御萬燈會講とか、吉祥院天滿宮御遠忌講とか、萬人講とかを起して月掛や年掛貯金を成し或は天滿宮、吉祥天女の御開帳等を行ひ準備金を作り又は崇敬者の寄附を仰ぎて諸事を完成し御神慮を慰め奉りて今日に至る、
然りと雖も御祭典期間には、皇家、菅家、親族を始め遠國の崇敬者も群參し種々の奉納物も多々ありき、
去る明治三十五年四月には七日間壹萬燈宛每日奉燈し約五千圓の寄附金を以て神殿、堂宇末社の大修繕及神苑を擴げ池を掘り花樹を植ゑ等して實に盛大なる一千年祭を執行し又一千二十五年祭は昨年なりしが御諒闇中とて一年延期し昭和三年四月二十四、五、六の三日間盛大なる祭典を執行す。
時にこれが經費も氏子及一般崇敬者の寄附を仰ぎしが半月餘にして壹萬餘圓を受くこれ全く御神德のしからしむるところなり。
これを以て吉祥天女院御屋根の大修繕及天滿宮神殿末社の修覆を行ひ境內を增加し、藪地(昔文章院跡)を開きて寳藏庫幷雜具納屋を造立し御茶所と日淸役記念碑を移轉し神苑道路の境には石を積み花樹を增植し栅を設け一方にては御神供(菓子)記念扇子及同繪葉書を調成して寄贈者に贈呈する諸準備を整へ每日五千燈を朝夕に献燈して祭典を執行せしが參拜旁奉燈者もありて通計凡三萬一千餘燈を數ふ。
合せて府社に昇格し以て御神慮を慰め奉らんと本年九月十三日のゆかりあ[6]日に昇格申請書を府聽[7]に提出し[8]氏子擧つて準備をさ/\怠りなし。
吉祥院天滿宮詳細錄編纂も同記念事業たり。
[1] | 「鳴」の誤記と思われますが、原文通り「嗚」と表記します。 |
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[2] | 原文は[交]の異体字[![]() |
[3] | 返り点「一」が抜けています。 |
[4] | 「は」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。 |
[5] | 逆算すると七百二十五年祭は寛永四年(1627)のはずなんですが。 |
[6] | 「の」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。 |
[7] | 「廳」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
[8] | 残念ながら、府社(旧府社)には昇格できなかったようです。 |
更新日:2021/03/06