吉祥院天満宮詳細録 第十章 p339 - 347
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今日以前に御年忌大祭及万灯会の修されて当社古記録に明記されたるものを左に記載せんとす。

一、吉祥院聖廟創祀以来御歴代の帝尊崇し給うとあれば御年忌御忌日には盛なる修法ありしこと確実なり。

二、第七十代後冷泉天皇は天満宮御神号を御宸翰ありて奉納し給いしは菅公第百五十年御遠忌の節なり。

三、第七十四代鳥羽天皇の御宇天仁二年二月二十五日より四日間菅公第二百年祭を特別盛大に勅命を以て祭典を行わせられたり。

四、公事根源に「吉祥院御八講自天仁二年始行」
「二月廿五日は天満大自在天神のかみあがり給し御日なり。 夢のつげありて天仁二年より吉祥院にて八講あり菅家のともがら参て是を行う」年中行事秘抄近代にも 「自天仁二年夢告吉祥院之諸儒参入」 当社記録中にも「二百年祭其後も毎年二月廿五日の御忌日には当社へ勅使をさしたて御八講料を御下賜ありて之を修することに定まり、同時に歴朝御尊崇ありし御社なり」とあれば御忌年等には特に盛なる修法ありしこと明確なり。

五、第八十七代四条天皇文暦二年二月二十三日吉祥院天満宮御八講料として加賀国笠間郷の柴山庄及富墓庄の二庄を永代下し賜うここと[1]なる時は菅公三百三十一年忌に当る。

六、第百三代御土門[2]天皇延徳元年十一月十九日大相撲会、同二十日御八講を修せし際勅使の参向あり、時は菅公五百八十八年忌に当る。

七、第百四代後柏原天皇大永二年十一月二十二日早旦使者参向路次行粧美麗なり云々(略す)時は菅公六百二十年忌に当る。

八、第百五代後奈良天皇は吉祥院天満宮御神号を御宸翰ありて御奉納あり、時は菅公六百五十年忌に当る。

九、第百八代後水尾天皇は吉祥院天満宮を別て御尊崇めらせ給いて元和年中より寛永年間にかけて神殿御造営の節銀一貫二百九十目、御紋章入白御幕二張、御紋章入提灯二張、天満宮御神号を御宸翰ありて奉納し給い、且つ本社東鳥居御額面御神号も御宸翰ありて奉納し給えり。 時に菅公七百二十五年御忌に相当す。 当社古記録 覚書 干中

『一、一貫二百九十目 後水尾院様奉納銀
一、百七十目程    清岡様奉加銀御釘云々
一、九百三十三匁六分 所百姓中預り銀
三口〆二貫三百九十三匁六分
右之内請取銀之覚
一、一貫六百目程 御本社 大工重左衛門請取
一、百五十一匁  瓦屋渡ス
一、二百目    重左衛門請取
右指引残部 六百四十二匁六分』

東福門院殿(後水尾天皇の中宮源和子第百九行[3]明正天皇の御母君、徳川大将軍秀忠女)より本社前唐門を御寄付ありしも此時なり。

一〇、第百十代後光明天皇の御宇慶安三庚寅年四月十三日より百日間及同八月廿五日より五十日間御開帳を行い菅神第七百五十年祭準備金集収を尽力し、承応元壬辰年二月十三日より五十日間天満宮第七百五十年御忌に付御祭典並御開帳を執行せしが参拝して献灯せる者万を以て数う。 是万灯の起原なり。

一一、第百十二代霊元天皇の御宇延宝五年天満宮第七百七十五年祭並万灯会を修せしが経費に不足を生ぜしより同八年四月より江戸表に於て八十日間御開帳なり此時の奉納金にて不足を充たし尚天神橋、鳥居、天女堂の御修覆あり。 天神橋見積り記の一節に左の如く出でたり。

『天神橋の見積
東西十八間 幅一間半、反り三尺六寸
平高欄作り 高三尺二寸、男柱四ケ所。
男神柱四ケ所 此坪二十七坪云々』

一二、第百十三代東山天皇の御宇元禄十六年壬午[4]二月二十五日より三十日間天満宮第八百年御忌に付き御祭典、御開帳、万灯献備を執行す。

一三、第百十四代中御門天皇の御宇享保十二丁未年二月二十五日より五十日間御開帳を行い天満宮八百二十五年祭を執行す。

一四、第百十六代桃園天皇の御宇天満宮八百五十年御忌準備として寛延三庚午年三月三日より三十日間御開帳を行い又一方には同年九月より天満宮八百五十年御忌万灯講を起す此連中帳の記録覚に、

『一、天満宮八百五十年御忌に付今度万灯会講相勤の次第、
一、毎年六月十二日、十月十二日、十一月十二日三度宛無相違都度相勤申候。
一、銀高七百五十目但一人前銀三十匁宛内
百八十七匁五分  二割半落引
三十二匁五分   飯代引
引〆五百三十目
此内に而味札一枚分御取済の御方より御掛け可被下候
一、取済の御方右の銀高七百五十目云々
寛延三年午十一月神主石原市正
一、戊十月十二日
五百三十匁   平右衛門
内十六匁六分一厘也 天満宮味札引
五百十三匁三分九厘也
一子十月十二日
五百三十匁 云々以下略す』

右によりて宝暦二年菅公八百五十年御忌御祭典並万灯会は無事執行されしなり。

一五、第百十八代後桃園天皇の御宇明和九年天神橋の架かえ及神殿堂宇の修繕を行い安永二年天満宮八百七十五年祭並万灯会を修す。

一六、第百十九代光格天皇の御宇寛政十年より本殿末社手洗井戸等の修繕を行い天満宮九百年祭及万灯会を執行す。

一七、第百二十代仁孝天皇の御宇文政六年より同八年へかけて御開帳を行い天満宮第九百二十五年祭及万灯会を執行す。

一八、第二十一代[5]孝明天皇の御宇嘉永五年には天満宮第九百五十年御遠忌の御祭典並万灯会を行修しけるが時の諸入費帳を見るも随分盛大に行われしものの如し。

一九、第百二十二[6]明治天皇の御宇明治三十五年四月十九日より同二十五日迄で七日間天満宮第一千年祭並万灯会を執行す。

二〇、今上陛下昭和二年は菅公一千二十五年御忌に当りしが御諒闇中とて延期し同三年四月二十四、五、六の三日間盛大なる御祭典並万灯会を執行す。 今より三十余年前十月十三日御例祭の節大般若を当村の僧侶等に依りて三四年間修せしも経費続かず中絶し居りしが此度一千二十五年祭に際し修めしを機とし村の補助を得て再興することとなる。

(付)各御年忌大祭及万灯会に関する日記書類あれども大部なるを以てこれを略し時を得て再録せんとす。

[1]「ことゝ(と)」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[2]「後土御門」の誤記ですが、原文通り表記します。
[3]「代」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。
[4]元禄16年の干支は癸未なので、「元禄十五年」の誤記と思われます。
[5]「百二十一代」の「百」が抜けていますが、原文通り表記します。
[6]「百二十二代」の「代」が抜けていますが、原文通り表記します。

更新日:2021/02/12