吉祥院天滿宮詳細錄 第十章 p371 - 378
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◎吉祥院天滿宮天女堂及各の修繕

明治時代は記錄なければ不明。 大正二年一月父菅原定宣老衰の爲め定正を以て社掌の承繼者と認定せられしが二月十二日死亡と共に社掌を府より任命せらる。 以來記錄せしものを記載する事とせり。
但修繕費は其都度四ケ町より徵收して支拂ふものとす
(一)大正二年十月七日集會决議に依り
西鳥居の額面及同覆ひ屋根の修繕を爲す。
(二)大正三年一月十三日集會决議に依り
天女堂廻廊板の修繕を爲す。
(三)大正三年九月七日集會决議に依り
小八ツ足臺 三個新調(代金九圓九拾錢)
(四)大正三年十月六日集會决議に依り
辨財天社前の石鳥居修繕(兒童惡戲にて破損)
經費金拾圓七拾錢也 協議上內金參圓は奉者中より特別寄附餘は四ケ町に割當。
(五)大正五年七月二十三日集會决議に依り
東入口老松樹及風害にて倒れし諸樹起し
(深見庄次郞氏と人足五名にて起し、根卷砂利車三臺を要せり)

紀伊郡役よりの大禮記念献木の樟樹枯木となり再び植ゑしも亦枯木となりしが協議の結果其の古木の周圍に實生の樟樹數本あれば之を大切に發育せしめて献木に代ふることゝせしが現今は大いに成長す。

天滿宮拜殿床及同拜殿天井、幷天女堂屋根、同緣側等の破損修繕(貳圓拾七錢材木商拂壹圓五錢手傳深見拂)
(六)大正五年九月廿九日集會協議に依り
稻荷神社 及辨財天社の覆屋根を深見庄次郞氏に修繕せしむ。
(七)大正五年十月十四日集會協議に依り
西入口井戶修繕と土樋入(同十七日人足は各町五人宛のこと、土樋、粘土、石、竹、㧞[1]繩の購入及手傳一人を入れて御神殿御屋根も手入せしむ)
献木 村長北村豊次郞氏及總代安田助之亟氏より寄贈のもの同十五日移植す。
(八)大正六年七月八日集會協議に依り
天滿宮南拜殿に白蟻發生につき、實地視寒[2]の結果被害甚しからず、されば一時的防止法として硫黃をいぶす事とせり。
(九)大正六年八月十七日集會協議に依り
每年の行事たる八月廿五、六日の兩日前、境內、園、路の修繕及提灯帳[3]替等は地藏廻り迄行ふ事に定め、各町より人足四人若くは五人宛出し氏子總代若くは世話方の一人是非出務することに定めたり。
拜殿に白蟻の發生せしは空氣の流よろしからざるを認め同月二十日伊氏を人足の一員として出務を願ひ空氣㧞の小穴を作る事とせり。
除番住)の後部に藪地を少し欠き物置小家の掛出しを行ふ(經費參拾參圓)
(一〇)大正七年十月十三日の協議に依り
境內石垣、村園の橋の修繕をなす、材料は村長と交照す。
(一一)大正八年八月二十一日の集會協議に依り
天女堂雨漏箇を新田の手傳源に修繕せしむ。
東井戶(鑑の井)の堀上を手傳源に行はしむ。
天滿宮石垣のカツラ石及同拜殿鬼瓦の落ちたるを修繕す。
六齋太皷奉舞臺の床板一枚失に付き新に揷入したり。
(一二)大正九年二月九日の集會協議に依り
檜垣源兵衞氏の盡力交照に依り岡田甚太郞氏より、櫻樹(山櫻)六拾本、楠樹貳本、欅樹貳本を境內、園に献木の事。同月十六日各町より車壹臺、堀起鍬壹挺、人足貳人、總代若くは世話方壹名宛と定め出仕す。
(一三)大正十年三月廿五日、同年四月七日同月十七日集會協議に依り
本殿南枯杉木(目周圍六尺四寸)入札岡田甚太郞氏に金參拾圓にて賣却し烏帽子二組と淺靴二組とを購入し年六回の人足を廢止せり。(立烏帽子拾參圓、淺沓七圓六拾錢、殘金は諸經費中へ繰入)
(一四)大正十年四月十七日集會協議に依り
凡百七八拾圓の豫算にて額面修繕の議起りしが同四月廿一日の協議に依り一先中止となる。
天神川河岸路の改修を村に依賴し安なる路にすること。
金拾五圓を投じて、きりしま、つゝじ保護の爲め鐵條網にて圍を作り費用は園費中より出金方を依賴することゝなる。
(一五)同年八月二日
岡田甚太郞氏より欅樹貳本献木。
(一六)大正十一年二月八日
山口岩吉氏より梅樹三本献木。
(一七)同年三月五日
村岡松之助氏より欅樹壹株献木。神田喜三郞氏より臺灣杉壹株献木。岡田甚太郞氏より楠樹、壹株櫻樹貳拾株献木。山下友次郞氏より松樹貳株献木。檜垣源兵衞氏より櫻樹献木。
(各町參人宛人足を出し右植付)
東入口つゝじ根元こわ入をなす人足は東條町部引受く。
(一八)大正十年八月廿一日集會協議に依り
境內石垣桂石の修繕及天女堂屋根の小修繕をなし雨漏を直す。
(一九)大正十一年八月十八日及同九月二日同八日集會協議に依り
天滿宮本殿及天女堂修繕費金貳百圓(四ケ町五拾圓宛出費し屋根下土は各町參名宛の人足を出す)を以て稍大なる修繕をなす。
右の結果、諸入費金貳百壹圓六拾五錢を要せり。出費法は內金百六拾圓六拾五錢は基本財產利子より支出する許可を受け四拾圓は各町に擔することゝなる。[4]
(二〇)大正十二年八月十八日集會協議に依り
大正十一年九月八日の集會に依り本社前燈籠壹對及西入口燈籠壹對も電燈に變更することに決し同十二年八月十日設備す。經費四拾八圓(柱拾八圓設備參拾圓)
西入口燈籠の上り石段の壞れし及西入口鳥居の基部地固修繕をなす。
(二一)同年十二月三日集會協議に依り
(一)本社前唐門コケラ葺大破損の爲め部葺替(同月三十日修繕成る)。
(二)安川居(お茶)疊替すること。
經費金凡百貳拾圓として附議可決す。
(二二)大正十四年十二月二日集會協議に依り
(一)園池水淺く鯉魚の悲慘見るにびざれば、流水口の樋を下げること、水底を下げること。
(二)北入口石鳥居の根〆せざれば危險に付き山中伊三郞氏に委任し經費は四ケ町に割當のことゝす。
(二三)大正十五年八月二十日集會協議に依り
園の橋破損に付修繕す、丸太材料は役場へ願ひ、大工一人、人足各町二人、總代世話方より二人出ること。
(二四)昭和二年四月十五日
石割三郞氏の盡力により、東入口南側の石垣積に改築することゝなる。
右費金貳百拾壹圓七拾錢也
內譯 金百九拾九圓五拾錢也(石積貳拾壹九圓五拾錢)、金參圓五拾錢(石代)、金四圓五拾錢(日雇人夫一人)、金四圓貳拾錢(杉丸太拾貳本)
四ケ町に割當。人足は東條町より出仕。
(二五)昭和三年三月始めより一千二十五年祭執行
準備大工事(前記にあり)。
(二六)同年八月二十日集會協議に依り
花樹保護のため鐵條網を西及東馬場石積上に張ることゝ決定す(鐵條網貳百間、杭三尺のもの百本購入)。人足として靑年會より各一名、各町三名宛、世話方も各町一名宛出ること(同卄三日)
(二七)同年十月十三日の協議により
園地[5]水またもや淺くなり鯉魚の脊を水面に現はすに至るされば同十七日に水底を下ぐるため人足を出せしが話の間ひにて東條町のみ出で、日他の三ケ町出でて底土を掘り上げたり。
(二八)同年十一月
奧村電機商會淸高會より御大典記念梅樹壹株献木。
[1]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[㧞]で表記します。
[2]「察」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。
[3]「張」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。
[4]計算が1円合いません。
[5]「池」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。

更新日:2021/02/13