第三十番 |
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浄土宗 本尊 阿弥陀如来 |
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当院は昆陽山地蔵院と云い、神亀3年(726)行基菩薩が聖武天皇の勅願に依って、摂津国昆陽池のほとりに一宇を創建したのが始まりである。 その後平安朝になって、衣笠山の南に移され、七堂伽藍を完備した名刹であったが、明徳2年(1391)の内野の合戦によって、堂宇残らず灰燼に帰す。 足利義満公は、深く当院の荒廃を惜しみ、金閣造営の余材を以って仮堂を建て地蔵菩薩を奉安した。 次いで天正17年(1589)、豊臣秀吉公の命によって一条紙屋川西の現在の地に移り、今に至っている。
その秀吉公が、北野大茶会の縁により献木したと云われる「五色八重散り椿」があったところから、一般に「椿寺」と呼ばれている。 もとは八宗兼学であったが、寛文11年(1671)善曳和尚の時に浄土宗となり知恩院の末寺と改め、本尊を五却思惟阿弥陀如来とした。 本堂棟続きの観音堂内中央の御厨子には、慈覚大師の作と伝えられる一木作りの十一面観世音菩薩立像[御丈5尺3寸]が雨宝童子、春日龍神の両脇士と共に奉祀してある。
出所:『洛陽三十三所観音巡礼』
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更新日:2015/11/29