京都東山 福めぐり |
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祭神 |
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創建に関しましては、詳細定かではありません。 が、『源平盛衰記』(応保年間一一六一〜八二から寿永年間一一八二〜八三までの二十年余りの歴史物語)に「瀧尾ノ不動堂」とその名が見えます。
社伝によりますと、元々は、洛東聾谷に武鵜ノ社と称し、応仁元年(一四六七)八月の兵火にかかり、多景ノ社(多卿ノ社という説もある)と称し、三十三間堂の南瓦町より今熊野に通じる南北の坂に移されました。 天正十四年(一五八六)、秀吉の大仏殿建立によってさらに現在の地に移されました。
瀧尾神社の歴史において、どうしても語らねばならない方がおられます。 大丸の創業者であられます「下村彦右衛門」さんです。
氏は、古着の行商を宝永三年(一七〇六)から始められ、享保二年(一七一七)に伏見京町北八丁目に於いて店舗を開設されるまでが、氏の最大の苦難時代であったといわれております。 京都と伏見を往来する道すがら、伏見街道一ノ橋にあって、街道に沿う一群の松樹のかげにひっそりと建った小さい社瀧尾宮に、「朝夕の祈り」を込められました。
彦右衛門さんは、事業が栄えると瀧尾宮のご加護と思われ、瀧尾宮の社殿の造営・修理をされました。 また、子孫の方々も同様に思われ、天保十年(一八三九)下村家(大丸)による、莫大な寄進により、貴船神社奥ノ院旧殿を移築。 京の彫物師・九山新太郎により、本殿・拝殿等に多数の彫刻があります。 現在まで、その姿は残っています。
出所:『瀧尾神社由緒略記』パンフレットから抜粋
横を通るたびに「小さな神社の割に立派な社殿だな」と思っていたのですが、大丸の創業者である下村氏のことを知って納得!! |
≪修復中の社殿≫
本殿、幣殿(へいでん)、透塀(すきべい)が保存修復工事中です。(2023年1月現在) |
≪拝殿天井の龍の木彫り像≫
江戸時代後期の彫物師である九山新太郎が製作した全長8mに及ぶ見事な龍の木彫り像です。 あまりの出来栄えに「夜な夜な川へ水を飲みに行っている」との噂が近所で広がり、龍が抜け出さないよう金網を付けたこともあったそうです。(現在、金網はありません) |
更新日:2023/02/07