京都八本山
第七番
ぐ そく さん りゅう ほん じ
具足山 立本寺
日蓮宗 由緒寺院・本山
本尊 
“説法第一”日審上人の寺
住 所
電 話
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備 考

 当山は妙顕寺、妙覺寺と山号を同じくし、三具足山みつぐそくさんの一つとして日像上人にちぞうしょうにん直系、ご開山の本山ほんざんである。 松ヶ崎檀林だんりんと歴代一体の関係にあり、檀林開創者・教蔵院日生にっしょう上人は当山十二世であり、多くの檀林化主けしゅが当山住持となっている。 二十世日審にっしん上人は、釈尊しゃくそん十大弟子で説法第一と呼ばれた富楼那ふるなの生まれ変わりといわれ、説法二万座・曼荼羅図顕まんだらずけん十万余幅・受戒入信者九万余人と伝えられ、その出生については幽霊飴伝説もいつか生まれ、その御影みえい像は宗門屈指の子安鬼子母神こやすきしもじんとともに安産・子育て守護のあつい信仰を集めている。 また深草元政ふかくさげんせい上人から「持戒第一の人」と尊敬された本覚院日英上人、近世の学徳と称される立正大学初代学長・心玄院日法上人等、名僧碩学せきがくを多く輩出している。

 縁起  妙顕寺と同じ四条門流に属する当山は、玄式日実にちじつ上人を開山としているが、日像上人が四条櫛笥くしげに妙顕寺を草創したことに由来する。 すなわち、妙顕寺は六世にっせい上人のとき、嘉慶元年(一三八七)に叡山僧徒の襲撃を受け、若狭の国に難を避けて移った。 明徳四年(一三九三)<または同元年>に足利義満は三条坊門に寺領を与え、再興を許した。 しかし、弟子の日実上人は四条櫛笥の地が日像上人に有縁の地であることから、日像上人開眼の鬼子母神ならびに十羅刹女らせつにょまつり、改めて後小松帝より綸旨りんじを賜り、堂宇を建立、”本を立てた”ことから立本寺と称したのが当山の起源という。 また一説によれば三条坊門に復興された妙顕寺が、応永二十年(一四一三)に再び破毀はきされたため、丹波に難を避けた月明がつみょう上人は妙光房を都へ留め、再興にあたらせた。 京都の有力商人であった柳の酒屋・小袖屋などの寄附を得て四条櫛笥の地に堂宇を建立、立本寺と改めたと。 宝永五年(一七〇八)の京都大火災のために現在地に移った。

 現況  現堂宇は宝永五年後の再建。 十五間四面、円柱総欅造りの本堂は延享年間(一七四四〜四八)に建立されたもの。 その西南に位置する祖師堂は、それ以前、天和年間(一六八一〜八四)のものであり、梁間はりまが八間の重層建造物。 そのほか、文化八年(一八一一)建立の刹堂、元禄年間(一六八八〜一七〇四)建立の開山碑堂・経蔵堂がある。

出所:『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて 日蓮宗本山めぐり(2003)』

更新日:2020/11/20