聖徳太子御遺跡
第六番
し なが さん えい ふく じ
磯長山 叡福寺
真言宗系単立(太子宗)
本尊 如意輪観音菩薩
納経題字上之太子
住 所
電 話
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備 考

太子の旅立ち

 大阪府の東南部に位置する太子町は、磯長谷しながたにを中心に太子の父の用明天皇、伯父の敏達天皇、その皇后であり太子の叔母にあたる推古天皇の御陵や、大化改新を詔した孝徳天皇陵が点在し、「王陵の谷」とも称される地だ。 また、太子の右腕として活躍した小野妹子の墓もあり、町名は聖徳太子ゆかりの史蹟を多く残すことに因む。

 その中でひときわ大きな存在を示しているのが叡福寺だ。 太子と、母の穴穂部間人皇女、妃の膳大郎女が眠る「聖徳太子御廟(磯長陵)」があり、太子信仰の聖地として、大聖勝軍寺(八尾市)を「しもの太子」、野中寺(羽曳野市)を「中の太子」と呼ぶのに対し、「かみの太子」の名で親しまれている。


 推古天皇29年(621)12月、太子の母の間人皇女が亡くなった。 この看病疲れからか、その後太子は健康を崩し、翌年の正月過ぎから病は重くなった。 しかも太子の世話をしていた妃の膳大郎女も倒れ、二人は枕を並べて病床に臥す身となったのである。

 倒れた二人の看病に当たったのは、一番若い妃の橘大郎女だった。橘妃はさかんに水を欲しがる膳妃に、「生水は病に悪いから」といって湯ざましの水を与えたという。 かなりの発熱があったのだろう。 太子と膳妃も、先に薨去した間人皇女も、当時流行していた疱瘡(天然痘)だったともいわれる。

 そしてついに推古天皇30年(622)2月21日、膳妃が亡くなった。 その翌日の22日、太子にも最期が迫った。 太子は枕辺の橘妃に「世間虚仮、唯仏是真」の言葉を残して、わずか49年の生涯を閉じた。

出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋

≪南大門≫
≪聖徳太子御廟≫
 寺内の叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、太子の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれています。

更新日:2019/09/23